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あの日から、もう五年が過ぎた。私が歩んできた道は、確かに変わった。家族との関係は、少しずつだが確かに変わった。ヴァレンシュタイン家とのわだかまりも、もうない。
それでも、根本の問題は何も動いてはいない。
冤罪の証拠は未だ見つからず、私たちは長い迷路の中で立ち止まり、出口を探し続けている。
それが、どれだけ苦しくても、諦めるわけにはいかない。だけど正直なところ、五年という時間の重みが、胸の奥に鈍い痛みを残しているのも事実だ。
そうして私はまた、中央学院の高等部の門をくぐる。
新しい日々は、どんな光をもたらしてくれるのだろうか。
◇
【皇都・ローゼンベルク家別邸】
朝の光が、部屋のレースのカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。季節は春。中央学院の高等部への進学初日だというのに、不思議と心は落ち着いていた。
この五年の間に、お父様も、家族と過ごす時間を意識して作るようになった。お兄様は既に、宮廷で皇太子付きの側近として働いている。
母方であるヴァレンシュタイン家との関係も、曾お祖父様と何度か直接言葉を交わしたことで、表面上は和解と呼べる形になった。
けれど——
大きな未来は、変わっていない。冤罪を晴らすための決定的な証拠は、いまだ見つかっていないし、神託の真意も分からないまま。「変わったこと」は確かにあるけれど、「変えられていないこと」も同じくらい、胸に重くのしかかっている。
皇太子妃としての礼儀作法や儀礼の習得は、昨年末で一通りの課程を終えている。これでも、世間的には「未来の妃」として一応の形にはなった……のだろう。
私はゆっくりと立ち上がり、鏡の前で髪を整える。銀の櫛を滑らせながら、自分の表情を見つめる。
十五歳になった。
そして、今日から始まるのは、中央学院での新しい一歩。れどその一歩は、まだ何も解決されていない“あの未来”へと続く道でもある——。
「お嬢様、支度はお済みですか?」
ドアの向こうから聞こえたのは、慣れ親しんだミーナの声。鏡越しに笑みを浮かべながら、私は振り返る。
「えぇ。今、降りるわ。」
「はい、では玄関でお待ちしております。」
彼女の足音が遠ざかるのを背に、私はひとつ息を吐いた。五年前のあの日と比べて、私は何かを変えられただろうか?問いの答えはまだ見えない。でも、それでも進まなければならない。
スカートの裾を整え、軽やかな足取りで階段を下りる。玄関ホールの扉の向こうには、学院への馬車が待っている。
そしてその傍には、いつものように——ディートヘルムが、いる。
「……ディートヘルム、今日はありがとう。」
かつては“様”をつけていた名前も、今ではそのまま口にしている。
そう呼ぶようになったのは、たしか二年前の春。彼のほうから「名前で呼んでほしい」と言われたのがきっかけで、それから自然とそうなった。最初は慣れなくて、何度も言いよどんだけれど、今ではもう、それが当たり前になっている。
「また、一年間は一緒に通えると思うと嬉しいよ。」
「私も嬉しいけれど、毎朝迎えに来なくてもいいのよ?」
私とディートヘルムの年の差は二歳。中等部の時も、一年だけ学年が被るので毎日一緒に通っていた。
彼が先に高等部へ進学した後も、毎日迎えに来ると豪語していたけど、さすがにそこまではさせられないので辞退していた。
「俺の毎日の楽しみを奪わないでよ。」
「ふふ。ごめんなさい。」
何気ないやり取りが楽しい。彼とはこの五年の間にかなり距離が縮まった。呼び方もそうだが、敬語も使わなくなったし、軽口も言い合える仲になった。これは逆行前と大きく変わった点だろう。
「そうだ、今日から新しい護衛騎士が付くことになったんだ。紹介しておくよ。」
ディートヘルムが馬車の影になっていた男性を私たちの元に呼んだ。一歩踏み込んだその男の姿に、私は思わず目を見張った。
深みのあるダークレッドの髪が、陽の光を受けてわずかに赤銅色に輝く。彼の背筋は騎士団の教本そのままに真っすぐで、漆黒と銀で統一された帝国騎士団の制服を寸分の乱れもなく着こなしていた。
「レオンハルト=グラーフ。帝国騎士団第一近衛隊所属、皇太子殿下付き護衛騎士にございます。皇太子妃殿下、以後お見知りおきいただければ光栄に存じます。」
その声音もまた、よく研がれた剣のように簡潔で、まっすぐだった。高ぶりも、躊躇いもない。ただ職務に忠実であることを誇りにしている――そんな姿勢が、言葉の端々に滲んでいる。
(……レオンハルト。逆行前にも、護衛についていた彼。やっぱり、この時期だったのね。)
強い既視感はあるが、それ以上でもそれ以下でもない。逆行前の私はディートヘルムとは公務以外でほとんど会話をしたことがない。レオンハルト卿も、顔は知っているが特に会話をした記憶もない。
そのはずだが、彼の顔を見ると何故か動揺してしまう。
「……知っている顔だった?」
横に立つディートヘルムから聞かれてハッとする。少々長く見つめすぎていたらしい。
「いいえ、何でもないの。……アンネリーゼ=フォン=ローゼンベルクよ。よろしくね、レオンハルト卿。」
胸に残る違和感を流して、挨拶を返す。私の言葉に、彼は静かに頭を垂れた。言葉ではなく、所作で忠誠を返す――それが彼なりの礼の示し方なのだろう。
レオンハルト卿は、気負うことも、媚びることもなかった。ただ騎士として、当然の礼節と忠義を示しているにすぎない。それは清廉な剣士特有の静けさであり、威圧感を覚えるものではなかったけれど――どこか、目が離せなかった。
そのままディートヘルムとともに馬車に乗り込む。朝の光を背に受けて、屋敷の門がゆっくりと開かれると、馬車は滑るように動き出した。
車内には、心地よい静けさが流れていた。私はそっと視線を落とし、指先を組み合わせる。
(五年。……あっという間のようで、何も変えられなかった年月。)
もし、今日から始まる高等部での日々が、未来を変える鍵になるのだとしたら――。
やがて、中央学院の門が見えてくる。高い尖塔のある校舎と、広々とした石畳の中庭。整えられた花壇には春の草花が咲き乱れ、制服姿の生徒たちが新学期の始まりに沸き立つように集まっていた。
馬車が止まり、従者が扉に手をかけようとするのを制するように、レオンハルト卿が一歩、前へ出た。ゆっくりと、無言で扉を開ける。その仕草は、訓練された騎士そのものの所作だった。けれど――
(……この光景、知ってる。)
瞬間、頭の奥がチリリと焼けるような感覚に襲われた。
春の光、学院の門前、扉を開けるレオンハルト――。
それは、画面越しに見たゲームの「スチル」そのものだった。
桐原杏奈としての私が見た、レオンハルトルートの始まり。初めて彼とヒロインが対面する、美しく印象的な導入の一幕。
(知っている。……『聖なる恋と断罪のロンド』。何度も繰り返しプレイした。)
ずっと頭の隅に追いやっていた事実。未来を変えるために、この世界に戻ってきた。けれど、忘れていたわけじゃない。見ないふりをしていただけだった。それが今、現実として私の目の前に現れた。
誰にも、お父様にも話していない。この世界が”ゲーム”として存在していた記憶。
レオンハルトが差し出した手を、一瞬だけためらってから、私はそっと取った。
◇
あの後、どうやってこの教室まで来たか、あまり覚えていない。ディートヘルムとまともに会話できていたかどうかすら怪しい。
思わず動揺してしまったが、むしろ桐原杏奈としての記憶があることは、これから行動するうえで有利にしか働かないはず。
私の目的は、あくまでローゼンベルク家の救済。ゲームの攻略対象と呼ばれる者たち――レオンハルトやこれから出会う誰かも含めて――、ヒロインにとっては重要な役割を持つのかもしれないが、私にとっては距離のある存在だ。彼らとこれからどう関わっていくのかは、これから考えればいい。
そう結論づけて教室を見回すと、窓際に座っていた一人の少年と目が合った。彼はにこりと笑うと、まるで羽でも生えているかのような軽やかな足取りで、こちらへ歩いてくる。
「君が噂の、皇太子妃殿下だね?」
長めの金髪に、ゆったりとした物腰。まるで自分だけのリズムで世界を歩いているような雰囲気をまとっていた。
「僕は、エミール=ド=ラフォーレ。音楽家の家に生まれたんだけど……堅苦しいの、ちょっと苦手でさ。」
ふわりと笑う彼に、どこか既視感を覚える。――もしかして、彼も攻略対象者の一人だろうか。
「同級生なのですから、気軽に話していただいて構いません。アンネリーゼ=フォン=ローゼンベルクです。」
「よかった!ずっと気になってたんだけど、中等部ではクラスが違って、なかなか話しかけられなかったんだ。」
ラフォーレといえば、代々宮廷に仕えてきた音楽家の名門。皇太子妃教育で宮廷に通っていた頃、すれ違ったことがあったのかもしれない。
「ほら、君って――少し変わってるでしょ?」
「……どういう意味でしょうか。」
その一言に、身体の奥がひやりと冷えた。どういう意味? まさか――彼は、私の“何か”を知っている……?思わず身構えた私に、エミールは首をかしげながら、屈託なく言う。
「君ってね、他の人とはちょっと違う“魂の音”がするんだ。ふしぎで、面白いよ。」
その言葉に、思わず肩の力が抜けた。――彼は、私の中の秘密には気づいていない。ただ、感じ取っているだけ。言葉では説明できない何かを。
「あ、こういうこと言うと気味悪がられるんだった……ごめんね。」
エミールは、心底申し訳なさそうな顔で頭を下げる。
「いえ、驚いただけです。……でも、不思議と不快ではありませんでした。」
言葉にしてから、自分でも驚く。こんなふうに誰かにすぐ気を許すことなんて、これまでなかったはずなのに。
「よかったぁ~。そう言ってもらえると、ちょっと救われるよ。」
ほっとしたように胸をなでおろすエミール。その仕草がなんだか可笑しくて、思わず口元がほころぶ。
「……ところで、君は何か楽器は弾ける?」
「え?」
「いや、なんとなく。音楽、似合いそうだなって思ったんだ。君の“音”が、きっと綺麗だから」
その真っ直ぐな目に、また少しだけ心を揺さぶられる。
「……少しだけピアノを。昔、母も弾いていたそうなので、真似をしただけですが。」
「それ、今度聴かせてよ!僕、君の音を聴いてみたい。」
まるでそれが当たり前のように言うものだから、断る隙もない。 でも、ふと――こんなふうに誰かと音楽の話をしたのは、いつ以来だろうと思った。
「……機会があれば、ね。」
そう返すと、エミールは嬉しそうに目を細めた。
「楽しみにしてる。きっと、僕の中でずっと響くような音になると思うな。」
――気づけば、最初に感じていた警戒心は、すでにすっかりどこかへ消えていた。
そのとき、後ろから小さな溜息混じりの声が聞こえた。
「……ふふ。アンネリーゼと仲良くなるの、私より早かったわね。」
声の主は、リディア=フォン=ブランケンハイム。中等部の頃からの友人、皇太子妃として周囲から距離を置かれている私にとって、数少ない“普通”に接してくれる存在だ。心を閉ざしていた過去の私にはいなかった、初めての親友ともいえる存在。
「リディア。今日の髪、編み込みがきれいね。」
「ありがとう。式典だからって、ちょっと張り切りすぎたかしら。」
そう言って、少し照れたように笑う。その笑顔に、胸の奥の緊張がまた一つほどけていくのを感じる。
「でも安心したわ。あなた、入り口で見かけたとき、少し顔が強ばっていたから。」
「……そうだったかしら?」
「ええ。今は少し、柔らかくなった。たぶん、その彼のおかげね。」
ちらりとエミールを見る彼女の目には、優しい好奇心が宿っていた。けれどそれ以上を詮索することはなく、ただ自然に私の隣に並んでくれる。
「さ、そろそろ先生が来る頃よ。一緒に座りましょう。」
「ええ、ありがとう。」
「僕もご一緒していい?」
「もちろんよ。」
こんなふうに自然に隣にいてくれる人がいる。逆行して変わってしまったものもあるけれど、変わらずにここにいてくれる存在がいることに、私は密かに感謝していた。




