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【ローゼンベルク領・侯爵邸】
「もう、ルーカス様ったら。またお嬢様を泣かせるなんて!」
私の長い髪を結いながら、メイドのミーナは怒っていた。ドレッサーに並ぶぬいぐるみたち、見覚えのあるドレスの並ぶクローゼット――幼いころから何ひとつ変わらない部屋の風景に、私は改めて確信する。――私は、過去に戻ってきたのだ。
あの後、目覚めてすぐ聞こえてきた声に思わず涙がこぼれた。慌てたお兄様の大声にメイドたちだけでなく、執事のテオドールまで私の部屋に雪崩れ込んできた。
「ごめんなさい、なんだか急に涙が出てきてしまったの。お兄様に何かされたわけじゃないのよ。」
兄の名誉のために、ここはちゃんと弁明しておこう。泣き顔の私を見たテオドールは、お兄様を捕まえてどこかへ連れて行ってしまった。そういえばお兄様はなぜ私の部屋にいたのだろう。
「……お嬢様、なんだか、少し雰囲気が変わられたような……?」
思わず振り返ると、ミーナが不思議そうにこちらを見つめていた。私の中には今、アンネリーゼとしての記憶と、桐原杏奈としての意識が混ざり合っている。おそらく、年齢に見合わない落ち着きが滲んでしまっているのだろう。けれど十八歳の精神で、八歳の子供を演じるのは、やはり難しい。
「…今日は、ディートヘルム様との婚約式でしょう?立派に務めなきゃいけないもの。」
「そうですね。…今日はとびきり可愛くして差し上げますね!お嬢様!」
私の覚悟を感じ取ってくれたのか、ミーナはそれ以上何も言わず、身支度の準備を進めてくれた。
鏡の中の自分を見つめながら、ふと記憶を辿る。……そう、この頃の私は、よく泣いてばかりいた。
家族と話すときも、いつもミーナや、ほかのメイドの後ろに隠れていた記憶がある。
あの頃の私は、お父様ともお兄様とも、まともに向き合ったことがなかった。誤解も確執も、すべてがそのまま放置されて――気づけば、聖女の神託一つで、二人も罪人として捕らえられていた。
神の言葉というだけで、誰も抗えなかった。
けれど私もまた、理由を知ろうとさえしなかった。助けようとも思わなかった。あのときの私は、ただ呆然と事態を受け入れて、何一つ自分の手で確かめようとはしなかったのだ。
(今ならわかる。あれは断罪だった。光に見せかけた、一方的な断罪だったのだ。)
もしかすると、お兄様が私の部屋に来たのは、私と和解するためだったのかもしれない。私は今日の婚約式を終えたら、領地から離れお父様と一緒に皇都へ移り住むことになっている。お兄様は15歳までは領地で後継者教育を受けていたはずなので、あと2年は離れ離れだ。
その前に関係を修復したいと思ってくれたのかも。このままでは以前と同じように仲が拗れたまま、お兄様は騎士団へと入団してしまう。どうにかしてお兄様と話をしておかないと…。
「お嬢様、できましたよ。」
ミーナの声に我に返る。鏡の中の自分は、8歳の少女とは思えないほど落ち着いた表情をしていた。長く編まれた温かみのあるブロンドに、真珠の髪飾りが揺れている。
「ありがとう、ミーナ。とても素敵よ。」
「とびきりのお支度ですからね、皇太子殿下も、きっと見惚れますよ!」
ディートヘルム。記憶の中の彼は冷静で、理性的で、それでいて誰よりも人を見ていた。表情の裏を、言葉の奥を、人の心を読むことに長けた彼に、私がただの子供ではないことを悟られるかもしれない。
それでも私は、焦らない。今日の婚約式では、杏奈としての知識も、アンネリーゼとしての後悔も、全部使って、彼と向き合うと決めたのだから。
「さあ、行きましょう。ミーナ。」
「はい、お嬢様!」
*
目が覚めて最初に思い出したのは、今日が婚約式の日だということだった。そして、その相手――ディートヘルム・ツー・グラウヴァルトのこと。
彼とは、十年前のこの日、ちょうど八歳のときに初めて出会った。
――あの日の彼は、静かで礼儀正しく、それでいて時折、年齢にはそぐわないほど鋭い眼差しをしていた。初対面の私に対しても過剰に媚びることなく、けれど丁寧に手を取って「よろしくお願いします、アンネリーゼ嬢。」と微笑んだ。
その笑顔は、私の胸を不思議にくすぐった。恥ずかしくて、でも嬉しくて、私はあのとき、確かに彼に憧れのような感情を抱いたのだ。
けれど、それから始まった皇太子妃教育は、私の気持ちを少しずつ変えていった。
「あなたは殿下の妃として常に完璧でなければならないのです」
「感情を表に出してはなりません、常に理性と品位を」
「殿下に恥をかかせてはなりません」
何を着るか、どこに視線を向けるか、誰と口を利くか。ひとつひとつが試され、監視され、評価された。自然と私は、ディートヘルムを“監視者”のように感じるようになってしまった。彼が何かを言うたび、その裏にある“正しさ”に自分が足りていないような気がして、心が縮こまっていった。
…そんなつもりはなかったのだと、今は思える。彼は本当は、いつだって私を見てくれていたのだ。叱責でも軽蔑でもなく、ただ私自身を。けれど、私はその視線を、重圧に変えてしまった。それが、すれ違いの始まりだった。
今、こうして過去の自分を振り返ることができるのは、私の中に「桐原杏奈」の記憶があるからだ。だけど同時に、死の直前のアンネリーゼの記憶も、胸の中で静かに息づいている。
だからこそ、私はやり直さなければならない。彼に与えてしまった誤解も、すれ違いも、失った時間も。
今度こそ――私は彼と、きちんと向き合う。
*
ミーナに手を引かれて、邸の大広間まで下りると、屋敷中の使用人たちが婚約式の準備をしていた。教会での婚約式の後、そのまま侯爵邸に戻りパーティーが行われる予定だからだ。
本来なら、婚約式は皇都で一度きりの儀式で済むはずだった。けれど今回は、特別にお父様の意向と皇帝陛下の承認を受け、皇太子ディートヘルムが西方を訪れたのだ。宰相家と皇室の結びつきを、地元からも祝福させようという、政治的な狙いがあった。
豪奢に飾り付けられた大広間を横目に侯爵邸を出ると、正門前にテオドールとお兄様が立っていた。門の外では既に教会へ向かうための馬車も到着していた。
「…お待ちしておりました、お嬢様。」
テオドールが恭しく頭を下げる。横に立つお兄様を見ると、少し気まずげな表情でこちらに手を出していた。お父様は皇帝陛下を出迎えるため、先に教会へ向かっていたから、エスコートはお兄様がしてくれることになっていた。確かこの時も、私はお兄様とは目も合わせずに馬車に乗り込んでしまったずよね。まずは、こういう小さなところから改善していかないと。
「今日は、よろしくお願いいたします。お兄様。」
そっとお兄様の手に自分の手を重ねた。お兄様はそれをまじまじと見つめ、それから私の顔を見た。
――この手を、振り払われるかもしれない。
一瞬、そんな不安が脳裏をよぎる。けれど、お兄様は何も言わずに、そっとその手を取り、エスコートの動作に移ってくれた。
「ジークベルト様が教会でお待ちのはずです。…いってらっしゃいませ。」
一連のやり取りを見ていたためか、なんだかテオドールの表情がいつもより柔らかいように感じた。背後に控えるミーナも、どこか満足げな顔をしている。
「二人ともありがとう。行ってくるわね。」
馬車へと導かれるあいだ、言葉は交わさなかった。でも、その静かな手のぬくもりに、少しだけ昔の距離が縮まった気がした。乗り込んだ馬車の中は、重苦しいほど静かだった。窓の外を眺めるお兄様の横顔が、少し硬く見える。……でも、今の私は黙っているだけじゃだめだ。
「…お兄様、さっきはありがとう。手を取ってくれて。」
そっと声をかけると、お兄様の肩がわずかに動いた。数秒の沈黙のあと、彼はゆっくりと私の方を見て、ほんの少しだけ、目を細めた。
「……別に。今日くらい、当たり前のことだろ。」
そっけない言い方。でも、その声色はどこか優しかった。
「でも、嬉しかったの。」
小さく笑ってそう返すと、お兄様は視線を外し、わざとらしく咳払いをした。照れ隠し……なのかもしれない。これまでなら絶対に見えなかったものが、少しずつ見えてくる。今度こそ、ちゃんと話せるようになりたい。揺れる馬車の中、そっと拳を握りしめた。
2025.6.21 一部修正。