子育て その1
母国に戻って、アスタロトは再び執務に戻っていた。
不在の間、政治を任せていた爺から山のような報告書を受け取り目を通す。
(貴族らに任せた新規事業は、その多くが成功している。やはり、人を使うことを頼むならそれに慣れた人材に頼んだ方がいい)
多数の貴族からの報告書を見ながら、アスタロトはうっそりと目を細めた。
(問題が発生しているところも、今のところは不正はなし。現場の小さな事故や経費などによる予想外の出費、それを貴族が自腹で立て替えて、それの補填を求めている。送り込んだ監査委員会も、買収されている気配はなし…)
まあそれはそれとして今度お忍びで現場を見に行くけれども、と一人ごちる。
(さて、現状の問題は…)
『…おい、いい加減にそれをやめろ』
『はみゅ?』
色欲の始祖還りだ。
アスタロトをテディベアのように膝に乗せて、その頭を唇だけではむはむと軽く食んでいる。
風呂に入れて、食器の基本的な使い方を教え、夜きちんと眠るように叩き込んだら、予想以上に懐かれた。教育はするけど、愛情まで親代わりになるとは聞いてない。
怒ったら怖いけど言う事を聞けば危害は加えないと学んだのか、きちんと言いつければ(時折理由まで説明する必要があることもあるが)ちゃんと頷いて言う事を聞くようになっているのは幸いだが。
ただ、いかんせん愛情表現が肉体言語すぎるのだ。
手を繋ぐ、抱きしめるはもはやいつものこと。撫でてほしいからと頭を押しつけるのもまだマシ。頬へのキスも十分許容範囲内。
ひどい時は、首や髪に顔を埋めて臭いを嗅がれる。耳や首筋を舐められる。恋人でもここまで頻繁にはこんなことしない。
しかも、初期と比べて言いつけを増やしてこれだからなおひどい。慣れてしまった自分にも呆れていた。
面倒なのは、彼が産まれ落ちて、既に何年もの時が過ぎていることだ。
ずっとそうして親愛、友情、愛情、独占欲など、様々な「好き」を表現してきたからそれ以外の方法を知らないのだ。
(…いや、もしかしたら)
お抱えの医師曰く、「ずっと閉じ込められて、入ってきた存在が生きて、死んで、腐る光景を嫌というほど見てきたから、心の底から気に入った存在は常に手元においておきたいのかもしれない」らしい。自分の手から零れ落ちて、失ってしまうのが怖いのだろうと。
それはそれとして、アスタロトも始祖還り(しかも年下)だから、寿命問題に関しては問題ないと思うのだが。
「…言語の使い分けで脳がバグりそうだ」
そう、彼の母国語、ラストの言葉と、アスタロトの母国語は違う。
将来祖国に帰すことを考えると、アケイディアとラスト、両方の言葉を話せるようにしておく必要がある。しかも、ラストの言葉を母国語として話せるように。
「…………」
無言で大きくため息を吐くアスタロトを見て、彼は首を傾げた。
***
色欲の始祖還りは、アスタロトの行くとこ行くとこに着いてきた。
図書室に資料を取りに行けば着いていき、休憩しようと何か飲み物を入れようとしたら着いてくる。
その様はまるで、ひよこを母親と勘違いした子ガモのようだった。
『…おい』
『んむぁ』
アスタロトが歩を止めれば、彼も止まる。まだしゃがんで目線を合わせることまで頭が回らないのか、そのまま、首を曲げて上からアスタロトを見下ろす。
『お前、名前は?なんて呼ばれたい?』
『ぅなあ?』
アスタロトが軽く傾けた首と鏡写しの方向に、徐々に曲げていく。
アスタロトが教えた、「わからない」のポーズだ。
『……』
一応、事情は聞いている。
かつては、彼にも名前があった。存在の証明があった。
しかし、始祖還りとして覚醒してしまい、欲求のままに暴れようとした。
だから、閉じ込められた。
彼を閉じ込めた後、王族の戸籍からは彼の名前が消された。
彼の名前が載っている戸籍は全て燃やされ、存在ごと抹消された。
だから、今の彼には名前が存在しない。
閉じ込められてからは名前どころか会話もなかった数百年。そんな彼に、「どう呼んでほしいか」なんて聞くのは、酷なことだろうか?
『…特に希望が無いなら、俺が勝手に呼ぶぞ』
『…ん』
こくん、と大きく頷くのを見て、アスタロトは目を閉じた。
暫し考えて、目を開いて彼を見据える。
『――リゲル』
『…いぐ、いげ、』
『そう、リゲル。お前の名前』
ずっと声を出していなかった弊害で、うまく動かない舌を一生懸命動かして、その単語を口の中で転がす。
『リゲル』
それがお前だと、アスタロトは指差す。
「うぁ」とアスタロトを指さされて、なんだと考える。名前を聞かれているのだと思い当たるのに時間はかからなかった。
『俺は、アスタロト』
そう言って、自身を指差す。
『あじゅ』
『アスタロト』
『あしゅ…』
『……アズ』
『あじゅ』
『そう、ア・ズ』
『あ、ず』
子どもたちにそう名乗っている簡単な偽名をあだ名として名乗る。
あず、と呟いて、彼は、色欲の始祖還りは――リゲルは、嬉しそうに笑った。




