6ー3・行き場のない言の葉
個室の病室に備え付けられた洗面台。
蛇口から水を捻ると湧き出た冷水を、
指先で触れると怜悧な冷たさが神経に伝わる。
圭介は自暴自棄になりながらも、無我夢中だった。
祖母が放棄した看病をそつなくこなす度に、
祖父への行き場のない思う度に、
顔に冷水をかけていく度に頭も顔も、
熱を奪って行き、冷めていく。
本当は何も考えたくないけれど
そうも行かない。
祖母が放棄したように、出来る事ならば自身も帰りたい。
だが危篤状態の祖父の傍には誰かいないといけないのだ。
病状はいつ変化するか分からないのだから。
全てを冷え切らした後、
タオルで顔を拭いた後で、ふと前を見る。
鏡に写るのは、怠そうな表情をした自身。
その瞬間。くらり、と視界が歪んだ。
(___あれ)
気のせいか。
しかし急に頭がふらふらして、頭が痛み出す。
メリーゴーランドのように 天井がくるりと回った時
その刹那に体が何かに打ち付けられた衝撃を受けた。
痛い。
けれど、
体は重く怠さを落とし、自由が利かない。
頭が思考さえも万六に働かず、
益々ぼんやりとしていく。
力が出ない。
虚ろな眼差しのまま、そのまま圭介は意識を手放した。
そして何処かで思ってしまった。
(___終わりたい、な……)
全てを。
終わってしまえば、良いのに。
あの事実を知ってから、風花の心中は複雑そのものだった。
ポーカーフェイスは得意だけれど、最も長い付き合いの
彼女達に悟られていないだろうか。
ある休日の朝。早朝から、風花の携帯端末に届いた着信音。
風花の携帯端末に入れられた連絡先は限られている。
「……どちら様、ですか…?」
セミダブルベッドの隣で眠っていた
フィーアは手を下に置いて穏やかな寝息を立てている。
その儚くも美しい佇まいや容貌は、
絵本に載っていた可憐な姫君を連想させるようなものだ。
渋々、風花は携帯端末を取り、物憂げに起き上がった。
携帯端末を見ると知らない番号から着信が来ている。
無視しようとしたが、コールが長い。
これではフィーアが起きてしまう。痺れを切らた。
着信を取れば相手は病院で、
電話口の相手は
〇〇総合病院の、看護師長と名乗った。
聞き覚えのない住所と病院の名前に
インターネットで検索するとその漢字が、
長野圭介の育っていた場所の地名だと気付いた。
そして感は当たり
『長野圭介さんの知り合いの方ですか』と問われて頷く。
内容は___。
「圭介が、倒れたって」
風花は指して驚きもしない。
緊急連絡先に書かれていた電話番号に連絡したと、言われた。
どうやら、引取り手が欲しいんだとか。
祖母とは連絡が取れず、緊急連絡先に
風花の名前が登録されていてその経由で連絡が来たらしい。
指して驚きもせず、他人事の様に言うと
何かを知っている様な面持ちをしたフィーアに
「はい?」
「………どうかした?」
「圭介さん倒れたんでしょう?
それに身内の方とも連絡が取れないから
風花に連絡がきたのに何故、貴女は他人事なの」
風花は疎いのだ。
現実を甘く見ている箱入り娘のような一面もある上に
100歩譲って人間不信という事は考慮しても、
危機感もなく鈍感にも程がある。
フィーアにより風花は身支度を整え、
トラベルセットを持たせる。
「ジェシカさんに言っておきますから、
さっさと行きなさい、大切な社員でしょう」
フィーアはいざとなれば腹が据わっていて、
何処かお姉さん気質だ。
フィーアに結われた髪を触れながら
(___どういうことかしら…?)
何も知らない風花は、そう思った。
突然、休暇が欲しいと要望を出した青年。
敢えて事情は聞かなかったが、そもそも理由はなにか。
けれどあの日に受けた電話越しに聞こえた声は
鈍りの様に重く、それ故に風花も深堀り出来なかった。
フィーアは何かを知っている様な素振りを見せていたからか
ますます疑問を感じる。
青年は、何をしていたか。
一応、自身が責任者だ。
責任者として職員の事は、行かなければならない。
風花はフィーアの言う通り連絡先の病院まで、走った。
少女の言葉も存在も
無視して、線路に飛び込めば良かった。
何処かで、そんな考えが浮かんだ。
「……………………」
白い天井。
そんな視界にひょっこりと現れた、人形の様な少女。
何度か瞬きをする度に視界は鮮明になり、
思考は落ち着いて元通りになって行った。
腕から伝わる冷たい感覚。
姿勢や感触から寝かされていると気付いた。
だが
未だに倦怠感が凄く押し寄せて、頭も重い。
当然ながら、気分も優れなかった。
「………目が覚めた?」
熱も艶もない冷たい声音。表情も無情。
やっと、傍らにいる少女の存在が誰なのか。
__いつの間にか、北條風花がいる。
「………どうして…」
「……起きないで。
今は安静にとお医者様が言ったところなんだから」
身を起こそうとした圭介を、風花は止めた。
医師からの圭介に下された診断は
精神的ストレスと過労、軽度の栄養失調。
「お祖父様の看病を寝ずにしていた、からでしょう」
一番の原因は過労と疲労であり、
今の青年は安静にしていた方が良いと風花は聞いていた。
睡眠もろくに取れず食事も喉を通らず、
ただ考え込んでは見張りとして祖父に付いていたから、
自身に構っている余裕なんてなかった。
……その生活を送っていた結果が、今なんだろう。
「………風花、どうして来たんだ…」
「連絡が入ったから。貴方が倒れたって聞いて、
フィーア心配していたわ」
「……そっか」
それを言うのが精一杯だった。
今の圭介の精神状態では誰にも会いたくない。
それに最も、今一番、この少女には会いたくはなかった。
セットアップのグレーの礼服。
それは心の曇り模様を表しているかのように思えた。
「……事情、聞いた」
「……」
圭介は、軽くあしらう。
「……休暇の事なら、気にしなくて良いから」
「……有難う、助かるよ」
せめてもの救いは、
少女が首を突っ込んで来ない事だ。