紡がれる想い
ファンタジー要素も異世界でもない現代の短編です。
ちょっとホロリとくるので、心が疲れたときなんかにいいかも。
「由香里、おめでとう」
両家を代表してと紹介されて、笑顔で話す父にスポットライトが当たる。
(お、お父さん………)
高砂の檀上から由香里は父を見た。
その横では夫となる幸信が、すでにハンカチを頬から離せずにいる由香里の母を目の隅に置き、すこしだけ俯いた義父が続ける言葉を待っていた。
「今日という日がくることを、僕はずっと待っていたよ。きっとそれは母さんも同じだと思う。君が僕たち夫婦を選んでくれたあの日から、この嬉しい日を心から待ち望んでいたんだ」
気持ちを入れ替えたかのように正面を見据えた父は、それまで由香里に見せたことのない、なんとも穏やかな笑みを浮かべてスピーチを続けた。
「君は覚えていないだろうけど、あれは確か、ようやく君がハイハイを卒業した頃のことだった。ものすごく慌てた声で、母さんから僕の会社に電話が掛ってきたんだ。母さんは泣き声で叫んでいた。『どうしよう、由香里が死んじゃう』とね。もちろん僕も慌てたさ。だから、すぐに仕事を切り上げて会社を早退した。母さんが言うには君はすごい高熱を出して、ときどき痙攣まで起こしてぐったりしてしまったのだそうだ」
その話は母から何度も聞かされた。
そんな経験は父も母も初めてで、何をどうしたらいいのかさっぱりわからずに、ただ慌てふためくばかりだったそうだ。
「ところが僕が家に着いた頃には、君はケロっとしてお菓子をパクパク食べていたんだ。母さんと目を見合わせて笑ってしまったよ。薬も飲ませていないのにどういうわけか熱も引いて、もっと欲しいって、口の周りをお菓子だらけにして笑っていたんだからね」
他にも父は、由香里のおむつが取れたばかりの頃、行く先々でトイレが間に合わずに粗相を繰り返したことや、ショッピングセンターで試食の品を全部食べてしまった話、電車の中でぽっちゃりとした女性に声をかけて、『そんなに太ってて暑くないの?』と大きな声で聞いて両親を困らせた話など、由香里の耳が真っ赤になってしまうような思い出話を語り続けた。
「そんな風に周りにも迷惑を掛けたし、恥ずかしい思いをしたことも数えきれない。だけどね、僕たちは幸せだった。そうやって君が大きくなっていくのを、由香里が成長していくのを、ずっと一緒に過ごしてこられたんだからね」
「小学校に上がってからの君の宿題は僕の役目だった。中学に入るまで続いたっけ。それからはちょっと寂しかったかな。君は、僕たちに言うことに耳を貸さなくなって、友達とばかり出かけるようになっていったよね」
それもよく覚えている。受験の失敗を親のせいにして荒れたのも、希望していなかった高校での生活になじめず、自分を見失っていたのも昨日のことのように。
由香里の頬を涙が伝った。顔を上げてなどいられなかった。嬉しそうな父の笑顔が胸に刺さる。穏やかに、まるで木漏れ日のような父の声が、小刻みに震える由香里の肩を抱くように包む。
「それでも僕たちは幸せだった。母さんとよく話したんだ。僕らもあの頃はそうだったよねって。親に反発ばかりしてね、何もできないくせに一人前を気取ってたんだ。だから由香里が反抗期になったときも、成長したんだなと嬉しかった。大人になる準備が進んできたんだからね。何を訊いてもしゃべってくれないのは寂しかったし、家族旅行はおろか、食事にも一緒に出掛けてくれなくなったのは少し辛かったけどね」
(お父さん………お父さん、私………)
「そして君が大人になる日は突然来た。高校の卒業を待たずに君は家を出ていった。勉強よりやりたいことがあると、そう言い残して僕たちから巣立っていったんだ」
と、そこまで話して父はまた俯いてしまった。途端に沈黙が披露宴会場を支配する。
由香里は顔を上げて父を見た。すっかり押し黙ってしまった父は、片手を顔に持っていき、込み上げてくる感情を堪えるかのように肩をわずかに震わせていた。
「皆様、ご存じのように新婦の由香里さんのお父様は…」
父の沈黙を合図にするかのように、会場に流れ始めた音楽を背に司会の女性がマイクを取った。その姿に職務を全うするプロの厳しさはなかった。落ちそうになる目線を何度も持ち上げ、一言ずつ、懸命にただ言葉を紡いでいく。
「お父様はすでにお亡くなりになっておられます」
会場の大型スクリーンに映し出された父が顔を上げた。そして、まっすぐにカメラを見据え、はにかんだようにまた穏やかな笑顔を浮かべた。
「このビデオは、お母様が遺品を整理されていたときに発見されたものだそうで、亡くなられた病室の引き出しに、母さんへと題されたもう1本のテープとともに、由香里さんあてに残されていたものだそうです」
映像の中の父は正装だった。背景は確かに病室だったが、病に倒れる前の父がそこにいた。白いネクタイをきちんと決めて、少女だった頃の憧れだった、背筋のピンと伸びたハンサムな父が笑っていた。
「元気にしているかい、由香里」
涙に滲んで何も見えない。せっかくの元気な父が、止まらぬ涙にぼやけて見えやしない。
「あとになって母さんから聞いたのだけど、美容師になるという夢は叶ったのかな。小さな頃から手先が器用で絵が上手だった君のことだ。きっと素敵な成長を遂げて、評判の美容師さんになっているんだろうね」
会場のあちこちから嗚咽が聞こえる。すすり泣く声がこだまする。ハンカチを手放せないのはもう、由香里の母だけではなかった。
「ビデオの中でお父様がおっしゃったように、由香里さんは美容師を目指してご自身の道を歩まれ始めました。お父様が倒れられたのはその直後です。由香里さんが美容の専門学校に転入し、東京で一人暮らしを始めてわずか数週間でのことでした」
BGMが派手なロックに変わった。父が好んでよく聴いていたバンドの曲だ。湿っぽくなった場の雰囲気が、わずかながらに明るくなる。
「お父様はご自身の運命を悟られていたのでしょう。お母様にも内緒でこのビデオを撮影されていました。いつの日か来るであろう晴れの日に向けて、父としての最後の務めをと、そうお考えになって病室に礼服とカメラをお持込みになったのでしょう」
(私、頑張ったよ。お父さん、私ね、美容師になってね、それでね………)
「由香里は他の子よりずっと若いうちから社会に出たから、たくさん苦労をしただろうね。だけど、本当の苦労はこれからかもしれないよ」
長時間の撮影に疲れが出たのだろうか。時折父は天井を仰ぎ見て首を振った。それでも、すぐに思い直したように息を吸い込んでは、再びまたカメラに目線を向ける。
「今日、君は新しい家族を持った。けれど、全く違う家庭で育ったふたりが一緒に暮すということは、楽しいことばかりではないんだ」
「母さんと僕もそうだった。たくさん喧嘩をして、少しずつ分かりあって家族になっていった。だから今日というおめでたい日だけどあえて言いたい。泣きたいことや哀しいことがたくさんあるだろうけど、隣にいるのは君が選んだ人なんだ。その人と精一杯生きていきなさい。大丈夫。母さんと僕の自慢の君だ。そんな君が選んだ人とならば、間違いなく君たちは幸せになれる。お互いに誠実に、精一杯生きていれば、嬉しいことはきっと後からついてくるからね」
「ハ、ハイッ」
由香里が口を開く前に、大きな声でそう叫んだのは幸信だった。
その顔はもうクシャクシャだった。鼻水まで垂らして号泣している。
「由香里。今日は本当におめでとう。そして、今日までありがとう。君のおかげで僕は幸せだった。小さな頃のたくさんの苦労も、大きくなってからの心配も、今では全部いい思い出だ。だから何の心配もいらないよ。これからたくさん苦労するとさっき言ったばかりだけど、どんなに辛くてもあとになれば笑い話。全てが楽しい宝物に変わるんだ」
由香里の涙も止まらなかった。父に会うのは家を飛び出して以来だ。高校も出ずに東京に向かってから、一度も父の顔を見ていない。
「由香里の隣で聞いてくれているだろう未来の旦那様。どうか、由香里をよろしくお願いします」
だというのに、あんな別れをしたままなのに父は優しかった。
死に目にも会えていないのにこんなにも自分のことを考えてくれていただなんて、何と言っていいのか言葉がみつからない。
「そして、申し遅れましたが旦那様となられる方のご両親、並びにご親族の皆様。若い二人を末永く、温かい目で見守ってあげて下さい」
映像はそこで途絶えた。スクリーンには高砂の由香里たちが大写しになった。その瞬間に切り替わった音楽がまた派手に場を盛り上げる。
由香里は、知らぬ間に席を立ってしまっていた母を探した。そして、会場の隅で涙をながしながら頷く母を見つけると、ありがとうと、ありがとうと何度も心の中で繰り返した。
お読みくださりありがとうございました。
ポツポツとマイペースで投稿していきますので、よかったら今後もよろしくお願いします。