これが私たちの人生
暗澹とした中世ヨーロッパ風の寒村、夜気が漂っていた。
ここはどこだ。
俺は、なぜこんなところを歩いているんだ。
「順調なようだな」
「だ、誰だ」
「人間の言葉で言えば、悪魔とでも言ったらわかりやすい存在だろうか」
「悪魔が一体何の用だ」
「しらばっくれても無駄だぜ。あんたの本当の年齢と性別を言ってやろうか」
「……ッ!!」
「ふふ。若い男の人生が楽しすぎて、すっかり忘れていたか?ん?」
「何が望みだ。死後の魂か?」
「2つ選択肢を用意してある。好きな方を選べ。命か仕事だ」
「命だと?俺は死んでしまうというのか?」
「違うな。これから、この世に新しい命が芽生えようとしているな」
「ま、まさか」
「母子2名の命をもらいたい。新子洋介とそのお腹にいる子どもだ」
「!!」
「お前は若いハンサムな男の体で、会社の成長も約束されている。これからの長い人生、今まで見たこともないくらいの美女がお前の前に現れては、恋愛関係を迫るだろう。結婚しても離婚してもいい。子どもなんてこれから何人でも作れる。愛人を囲い放題だ。それでいて、お前を責めるやつもいない。理想の男の人生を歩むことができる。死後に魂を要求しない。たった2人の命さえ諦めればな」
骸骨のような意匠の立体映像が目の前に迫る。
「もし断ると言ったら?」
「お前の事業は失敗し、極貧生活を送ることになる。女にもモテず、情けない余生を送る」
悪魔は冷たく言い放った。
「男になって仕事で成功したかったんだろう?2人の命とお前の人生を天秤にかけてみろ。どちらを選ぶかわかりきったことじゃないか」
カラカラとした笑い声が響き、ごくりと唾を飲みこむ音が聞こえる。
唾を飲みこんだのが自分だと気づいた永遠とも思えるような時間が経ってからだった。
「俺は……私は……」
悪魔のささやきは高笑いへと変わった。
「あなたー。涼太!瑞希!俊介!舞!ごはんよー」
「「はーい」」
「あなた?どこ行ったの?あなたー」
「父ちゃん、俊介を連れてどっか行った。男と男の話をするって」
「もう!しょうがない人ね!早く片付けなきゃいけないのに!」
私、八幡洋子は、主人、早人の子どもを5人産んだ。
主人の稼ぎが少ないので、子育てしながらパートで働いている。
以前は弱い男だったこともあるが、家族を守るために強い女にならざるを得なかった。
「かあちゃんただいまー」
「おかえりー。どこ行ってたの?」
「父ちゃんとカーネーション買いに行ってた。母の日でしょ?」
「あれ?母ちゃん泣いてる?」
「ば、ばか!泣いてなんかないよ」
おかしいな。僕は、年をとって涙腺が弱くなったかもしれない。
僕か。
女としての波乱万丈な人生を過ごしても、心のどこかには男の自分が自身の姿を冷静に眺めていた。
女としてのふるまいはあくまで演技にすぎない。
僕は社会という群像劇の舞台に立つ、サブヒロインの一人なのだ。
時に自分の演技に酔ってみたり、そんな自分を醒めた目で見たり。
家族もご近所もみんな僕のことを平凡な主婦であるとだまされている。
僕の本当の性別を知るのは旦那だけだ。
だけど、世の中に普く平凡な女性たちのうち何割かも、僕と同じく、社会から女であることを強いられ、仕方なく女という役割を演じているにすぎないのではないかと思うと、僕だけが特別な悩みを抱えているというのは思い上がりだろう。
(なあ……今夜はいいだろ?)
また、甘くささやけば言うことを聞くと思ってるんだから。
あざといなあ。
ふふっ。
そういうところが可愛いんだけど。
(いいけど、優しくしてね)