さようなら
『Lucie』、それは私の名。
サムさんからその名を呼ばれるとは思ってもいなかった私は、すぐに反応することができなかった。
「あなたに対するこれまでの不敬の数々、平にご容赦ください」
深々とお辞儀をするサムさんに動揺して震える手を、私はきつく握りしめる。
「サ、サムさん、頭を上げてください。何を仰っているのか、私には……」
(大丈夫。これは、きっとサムさんの冗談だから……)
「……あの日、森から飛び出してきたあなたは光り輝いていたのです。だから私は、あなたが『人ならざる者』だと思いました。それで同行を申し出て、監視の意味も含め様子を窺っていたのですが…」
それから語られたのは、サムさんから見た私の姿だった。
最初は、魔物が人に変化しているのかと思ったが、悪意は感じられない。
話をしてみると礼儀正しいが、いろいろと世間の常識が抜けているため金持ち娘の道楽かと思えば、違うと言われてしまう。
サムさんはそんな私に困惑してしまったそうだが、それでも、彼は私を放っておくことができなかった。
「あなたから相談を受けたり、頼られたりすることが嬉しかった。だから、余計に司祭であることが言い出せなくて……」
気軽に相談される相手として居たいのに、自分が聖職者であることが知られたら距離を置かれてしまうかもしれない。
私はそれを恐れたのです……サムさんは苦笑交じりに呟いた。
見事な神聖魔法の使い手の私が、本当は何者で、どこから来て、王都で何をするつもりなのか、サムさんが聞きたいことは山ほどあった。しかし、自分も正式名や司祭であることを隠している身。だから、深く詮索することはできなかった……と。
そうこうしているうちに、私が予定よりも早く王都へ旅立つことになった。
その時のやり取りから、もしかしたら私の正体は『預言者』なのでは?との疑問を持ったが、確証はない。
教会のアデル像を興味深げに見ていた私に、どうしても他の女神像を見せたいと思い、サムさんは私に無理を言って約束を取り付けたのだった。
王都での私の活躍は、人伝に聞いていた。
厄災が収束し終わったと思っていたら、今度は私が王城に連れて行かれたまま戻ってこない。その時すでに国へ帰ることが決まっていたサムさんは、やきもきするしかなかったそうだ。
そして、私が必ず来ると信じて像の掃除をしていた時に、秘密を知ることとなった。
「女神さまの名は全て覚えていても、さすがに女神像全てのお顔までは覚えておりませんでした。ですから、女神L像のお顔を見たときは驚きました。まさに、あなたの生き写しでしたから」
「それは、単なる偶然だと思います。偶々よく似ているだけであって……」
他人の空似だとサムさんへ訴えたが、彼は首を横に振った。
そして、私にもう一度、女神全員の名を言ってほしいと告げた。
「……イェーツ、ゼノン」
「『ゼノ』ではなく『ゼノン』。なぜ、あなたは女神Zの正しい御名をご存知なのですか?」
「正しい名とは、どういう意味ですか?」
女神ゼノンさまの名は、他の女神さまと同様に変わっていない。
質問の意図がわからず首を傾げる私にサムさんは優しいまなざしを向けると、話を続けた。
「あなたが女神Lではないかと疑いを持ったときに、ふと村の教会での些細な違和感を思い出したのです」
どの教典を見ても『ゼノ』書いてあるのに、あの時も私は『ゼノン』とはっきり口にした。
その時は発音の違いかと聞き流したサムさんだったが、今回は調べることにしたそうだ。
現在、信者が閲覧可能な最古の『教典』は、五百年以上前に原本から書き写された物で、新しい教典はすべてそれを基にして書かれているとのこと。
サムさんは王宮図書館で特別な許可をもらい女神教の『教典』と『経典』の原本を両方閲覧し確認したところ、原本は両方とも『Zenon』だったが、五百年前のそれは『Zeno』と記載されていた。
つまり、原本から書き写した者が間違えていたことが発覚したのだ。
「御名を知っているのは、特別な許可を得て原本を閲覧した者、もしくは女神さま以外には考えられないのですよ」
「…………」
「彼の国を救っていただき、ありがとうございました。リュシーさまの助力がなければ、影響はこの国にも広がっていたことでしょう」
『リュシーさま』
サムさんからそう呼ばれる度に、胸がひどく痛む。
もう彼から『エルさん』と呼んでもらえないことがこんなに悲しいなんて、想像もしていなかった。
サムさんは、いつも私の傍にいてくれた。
私に寄り添い、話を聞き、相談に乗ってくれた。
あなたと一緒に食べていたご飯は、いつも美味しかった。
あなたと一緒にいると、心がポカポカしたり、胸がキュンとしたり、ギュッと痛かったり。
あなたに抱きしめられたら、温かくて、落ち着けて、安心できた。
サムさんだけには、私の正体は知られたくなかった。
最後まで『村娘L』として、お別れをしたかった。
気づけば、何かが頬を伝っている。
止め処もなく溢れ出てくるのは……涙だった。
(知らなかった。『涙』って塩辛いんだ……)
手で涙を拭うと、私は顔を上げた。
もうこれ以上、ごまかすことはできない。
「……こちらこそ、サムさんのおかげで無事に任務を終えることができました。未熟な私にいろいろと教えてくださり、ありがとうございました」
無理やりにでも笑顔を作る。
おそらく顔は引きつり、お化粧は剝げ、見るも無残なことになっているだろう。
それでも、泣き顔でお別れだけはしたくない。
私の周囲を、光のベールが覆っていく。
「サムさん……さようなら!」
◆◆◆
エルの姿が消える直前、サムは呟いた……ある物を握りしめながら。
「さようなら…………エルさん」