別れ
三日前、王都の中心地に突然瘴気の穴が出現し、魔物が続々と湧いている。
今は騎士団が討伐しているが、日に日にケガ人が増えてきており、王都内の治癒士だけでは手が足りなくなってきていた――
◆◆◆
村の中心部からは少し外れた閑静な住宅地の中に、その教会はひっそりと立っていた。
今はお昼前なので、朝のミサは終わっている時間だろう。
私は門を通り抜けると、扉の前に立つ。
人々がいつでも祈りが捧げられるようにと基本的に鍵は掛かっていないそうで、今日は天気が良いからなのか重厚な扉は開け放たれたままだった。
教会内に足を踏み入れた私は中央の通路を脇目も振らず進んでいき、正面の女神像の前で立ち止まるとそっと見上げる。
(女神Aさま……)
神々しいお姿の、女神Aさまこと『Adeleさま』がいらっしゃった。
慈愛に満ちた表情で微笑まれるそのお姿は私たちに向けてくださるのと全く同じで、衣装は本物よりやや装飾過多だが、その分高貴な雰囲気が醸し出されているのだろう。
私が息も吐かずに見つめていると、コツコツと後ろから靴音が近づいてくる。
振り返った先にいたのは、司祭服を身にまとったサムさんだった。
「こんにちは、サムさん……じゃなくて、サミュエル司祭さま」
「エルさん、サムで結構ですよ。それより……どうしてこちらへ?」
「サムさんにお話があって。それと、女神さまを一度拝見したかったんです……アデル像を」
再び像を見上げながら答えると、サムさんは驚いた顔をした。
「エルさんはよくご存知ですね! 信者でも、女神Aさまの正式な御名までは知らない者も多いのに……」
「…………」
サムさんの驚きの視線が、私に容赦なく突き刺さる。
誰に言われずとも、やってはいけないことをやってしまったことだけはわかる。
いろいろとやらかしてしまう私は、もう何も喋らないほうが良いのかもしれない。自分がどんどん深みにはまっていく気がするから。
「……アデルさまの下には、二十五名の女神さまがいらっしゃいます。そのお一人お一人にも御名があるのですが、エルさんは……」
もちろん全員知っている。
サムさんへ視線を送ると彼が期待を込めた瞳で私を見つめており、知らぬ存ぜぬを通そうか迷ったが、結局私は口を開いた。
「ベリンダ、クロエ、ドロリス、エマニュエル……」
目を閉じ、それぞれの女神さまの顔を思い浮かべながら、私は淀みなく口にしていく。
「……クセルクセス、イェーツ、ゼノン」
言い終えたあとも、私はすぐに目を開けない。
サムさんがどんな顔で私を見ているのか、確認をするのが怖かった。
「…………」
沈黙は続いており、居たたまれない。
もう目を閉じたまま、この場を去りたい気分だ。
「…………」
しばらく様子を窺っていたが、埒が明かない。
恐る恐る目を開こうとしたその時、何かに優しく包み込まれる。
目を開けると、私はサムさんの腕の中にいた。
「えっと……サムさん?」
サムさんは私の問いかけには答えず、さらに腕に力をいれる。
彼が私にしているのは『抱擁』というもので、その相手は、家族、友人、恋人等と資料には記載されていたから、これは『友人同士の抱擁』になるのだろうか。
先日の一件もあり、宿で改めて資料を読み直しておいて良かったと心から思う。
頭の中で内容を反芻した私は、資料にあった図のようにそっとサムさんの背中に腕をまわしてみたところ、彼の体温と鼓動が伝わってきた。
(温かいし……心音が落ち着くし……すごく安心できる……)
私が経験したことのない様々な感情が、体の奥から次々と湧き上がってくる。
心地良い気分に身を任せていると、ふいに私を包んでいた腕の力が抜けたので私も手を放すと、サムさんと目が合う。
彼の顔が見る見るうちに真っ赤となり、慌てて飛び退くように私から離れた。
「エルさん、大変申し訳ない! つい嬉しくて、あなたを抱きしめてしまった」
「嬉しかった……ですか?」
「私がこの職に就いて何年も経ちますが、女神さま全員の御名を諳んじたのは、司祭以外ではあなたが初めてだったのです。それに感激してしまって……」
拳を握りしめ子供のように目を輝かせているサムさんを見ていたら、胸の奥がキュンとなった。
最近彼と一緒にいると、心がポカポカしたり胸の奥がキュンとしたりと体の異変を感じることが多いが、どこか体の具合でも悪いのだろうか。
病気ならば自分の体に手を当てて癒すだけなのだが、でも違うような気もする。
(サムさんに聞いたら、理由がわかるのかな……)
「あの……エルさん、良かったら今から一緒に昼食でも食べに行きませんか? お話は食事をしながらでも……」
ひとり首をかしげていたが、サムさんのお誘いにハッとする。
本来の目的をすっかり忘れていた私は、首を横に振った。
「せっかく誘ってくださったのに、申し訳ありません。私はもう行かなくてはなりません」
「どちらへ行かれるのですか?」
「王都です。だから、今日はサムさんへお別れを言いにきました」
「……予定では、たしか半年後だとお聞きしていましたから、まだ三か月くらいあるのでは?」
「私も驚いたのですが、時期が早まったみたいです」
厄災が起こるのは十ノ月だったはずなのだが、今はまだ七ノ月。
理由はわからないが、事が起きてしまった以上、私は速やかに任務を遂行しなければならない。
「王都の厄災で、ケガ人が大勢出ています。その治療を支援するためこの村の治癒士が向かうことになり、私はそれに名乗りを上げました」
サムさんへ現在王都で起きている出来事を説明し、私も向かうことを告げた。
「もしかして……エルさんは、これに対処するためにこの村へ来たのですか?」
サムさんは頭が良いので、いつも核心をついた質問をしてくる。
信じてくれるかどうかは別として、彼には本当のことを知ってもらいたいと思った。
大きく頷いた私に、サムさんは息を呑む。
「これが終わったあとは、どうされるのですか?」
「また、元いた場所へ帰ります」
任務完了後は、速やかに帰還しなければならない。
「それは、どちらの国ですか?」
「……申し訳ありませんが、それにはお答えできません」
サムさんの目を見て、これだけははっきりと伝える。
私が女神であることを、彼に知られるわけにはいかないのだ。
「私はまた、あなたと会えますか?」
「それは……」
この任務が終われば、私はまた女神Lに戻る。
そうなれば、『村娘L』こと『エル』は存在しなくなり、サムさんとはもう二度と会えなくなるのだ。
突然、胸に痛みが走る。ギュッと胸を締め付けられるような鈍い痛みがつらくて、息苦しくて、初めての経験に戸惑ってしまう。
「もう一度だけでいいんです。すべてが終わったら、私と会ってもらえませんか? あなたに是非とも見せたい物があるのです」
「……わかりました」
サムさんのお願いを断るのが忍びなかった私は、胸に手を置き痛みを緩和しながら頷く。
私も彼にまた会いたい……ただ、そう思った。
「それでは、エルさん……どうかお気を付けて」
再会する場所のメモをもらった私はサムさんと別れ、王都へ旅立った。
さあ、いよいよ任務が始まる。