ブカレスト ホテルキャピトル
スマホのアラーム音で亜希は目を覚した。画面を見ると朝6時半。まだ眠いのは時差ボケのせいだけではないだろう。ホテルに到着したのが深夜12時すぎ、それからシャワーを浴びて荷物の整理、眠りについたのは午前2時だった。そして、また夢を見た。ここブカレストは15世紀にドラキュラ公が都を置いた場所だ。彼の伝記を読んだとき、当時定めた首都が現在もその機能を引き継いでいることが興味深かったのを覚えている。だからだろうか、ドラキュラ公の宮廷での出来事を夢に見たのは。石畳に響く彼の力強い靴音が頭に残っている。そして、周囲の人間たちが感じた恐怖も。思い出すのもぞっとする串刺しの光景は伝記の中のおぞましい版画のままだった。恐ろしい夢だった、しかし彼の苦悩する姿が強く印象に残る夢だった。
空調をつけずに眠っていたが、朝は少し肌寒い。それなのに亜希は全身がうっすらと汗ばんでいた。このまま服を着るのも不快だったので、シャワーで軽く汗を流した。髪を乾かしながら、夢の情景を忘れないようメモしておこうと思った。バッグからすぐに取り出せるように手のひらサイズのメモ帳を持っていた。ボールペンでキーワードを書いていく。
「トルコへ金貨1万、少年500名、断った・・・と」
夢というのは起きたその場は覚えているが、何故かすぐに忘れてしまう。この程度のメモでも残しておけばキーワードから思い出せるだろう。そういえば、朝は7時から朝食がついていたはずだ。ひどくお腹が空いているのも時差のせいだろうか。化粧はおいといて、とりあえず服を着替えた。カードキーと貴重品をまとめた小さなバッグを持って朝食会場であるロビー横のレストランへ向かう。エレベーターに乗ろうとしたら、容赦なく扉が閉まり、体を挟まれてしまった。
「え、何これ!?」
あわてて扉を押し返すも扉は強引に閉まり続ける。亜希は無理矢理体を中にねじこんだ。
「これはすごいエレベーターだわ・・・これが東欧式なのかな」
日本なら安全装置が効いて、何かが挟まっていたらすぐに開くよう作動するはずだ。朝からエレベーターと格闘する羽目になり、すっかり目が覚めてしまった。
朝食会場はバイキング形式になっていた。フレッシュな野菜に、ハムやチーズなど。オリーブの実がふんだんに使われているのがめずらしく、海外だなあと実感する。スープにパン、ヨーグルトにコーンフレーク。亜希は旅先での朝食はしっかり食べる主義なので、一通り皿に持って窓際のテーブルに座った。まだ空は雲が多く、薄曇りだがスマホの天気予報では今日は晴れの予報だった。石造りのゴシック建物が並ぶ景観は日本とはまったく違った雰囲気で、街をゆく人々もすらりと背が高い異国の人間ばかり。窓からの眺めだけで日常の現実から逃避できた。野菜はどれも味がしっかりしており、新鮮でルーマニアが農業国だということを思い出す。しかしパンは見た目以上に堅くてパサパサだったので、スープにつけて食べた。デザートにフルーツと一緒に盛ったヨーグルト。ヨーグルトはかなり甘みがついており、濃厚な味だった。ブルガリアが近いせいだろうか、と亜希は勝手に納得した。
素朴ながらがっつりと朝食を食べることができ、亜希はご満悦だった。部屋に戻り、忘れ物がないか確認してスーツケースの鍵を閉めた。かさばるので迷ったが、龍の紋章の本は手持ちのバッグに入れて持ち歩くことにした。ふと、メモをしたときに使っていたボールペンが無い事に気がついた。ベッドの上、化粧台、探し回ったが見当たらない。安いものだが、書き味が良く気に入っていた。
「どこにいったかな・・・」
思いついて、ベッドの下を覗いてみた。するとシーツの影にボールペンが落ちている。その奥に何かボタンのようなものが落ちているのに気がついた。ボールペンと一緒にそれを拾い上げる。それは円形ではあるが、やや歪みのある古いコインだった。厚みは一定ではなく、ゆがんだ形は手作りのような稚拙さがある。水で流してタオルで拭いてみれば、ぼんやりと金色で、ずしりと重い。よく見れば、ヨーロッパ圏のコインのように人の横顔が刻印されている。
「これって金貨?まさかね・・・」
先客がベッドの下に落として気がつかなかったのだろうか。おもちゃかもしれないけど、チェックアウトのときにフロントに渡そう、と思いポケットにしまった。
ドライバーのミハイとの約束は9時。まだ1時間ほど余裕がある。ホテルの周辺を軽く散歩でもしようと化粧を済ませ、日焼け止めを露出部に塗った。大陸は日本より紫外線が強いイメージがあるので普段より念入りに厚塗りした。
ドアのところに立ったとき、ノック音が聞こえた。心臓がドキンと脈打つ。ここに尋ねてくる人などいないはずだ。別の部屋の音かと思って息を潜めていると、もう一度聞こえた。間違いなくドアの向こうに誰かがいる。押し込み強盗ではありませんように、無駄に心配性だと思うが海外では何が起きるか分からない。亜希は警戒しながらドアを開けた。そこには黒髪の青年が立っていた。知らない人だ。それもそのはず、このルーマニアで亜希と面識があるのは昨日迎えに来てくれたミハイしかいないのだから。
「ハイ、アキ」
何故名前を知っているのだろう。ホテルの人だろうか。亜希の顔は固まっている。青年は亜希より頭一つ高く、健康的な肌色、彫りが深いので明らかに現地の人間だ。整った顔立ちでキリッとした眉毛が真面目で誠実な印象を与えた。年は30代くらいだろうか。部屋を間違えてないかと思ったが、彼は亜希の名前を知っていた。
「えっと、Who are You?」
亜希は何とか記憶の彼方から思い出した中学英語でおそるおそる尋ねてみた。
「私はエリックといいます。日本語は少しできます」
・・・えっ、誰!?亜希の頭は混乱した。亜希が不審がっていることに気がついているのだろう、エリックは続ける。
「今日からアキのドライバーをします。ブカレストの街は渋滞がとてもひどいので、準備ができていたら早めに出発しましょう」
そういうことなのか、ミハイは空港送迎だけだったのだろう。たしかにおじいちゃんに手が届きそうなおじさんだったし、本格的な観光ルートの長距離の運転は若い人が対応するという仕組みとい考えて良さそうだ。ミハイはカタコト英語だったし、その説明は省いたのかもしれない。
「今日はシナイア、そしてブラショフまでドライブですね」
エリックの言うそのルートで正しい。日本語ができるドライバーとはありがたい。イーストトラベルでは英語ドライバーと聞いていたが、手配がついたのかもしれない。亜希はもう一度忘れ物がないか部屋を確認して、スーツケースを押し出した。エリックがすぐにスーツケースを持ってくれた。そのままロビーへ降りる。
「チェックアウトしましょう」
エリックが部屋のカードキーを受け取り、カウンターのホテルマンに返却してくれた。何かルーマニア語で言葉を交わし、OKとジェスチャーで教えてくれた。
「車はホテルの外に停めてありますから」
エリックの日本語は平坦な標準語で、かなり自然な発音だった。これならコミュニケーションに困らないだろう。亜希はホッとした。路上駐車してあった車はやや古いモデルの黒色のBMWだ。ワーゲンがBMWにグレードアップした、と亜希は内心驚いた。しかし、ここはヨーロッパ圏だし、BMWは日本の感覚のような高級車ではないのかもしれない。エリックが助手席のドアを開けてエスコートしてくれた。
「ありがとうございます」
乗り込むと、体が深々と革張りのシートにおさまった。こんな高級外車に乗ったことがない亜希は気後れしてした。エリックも乗り込んできてキーをひねると、心地よい音でエンジンが始動した。
「では、行きましょう」
エリックはにこりと笑う。車は大通りに出て、北上し始めた。明るい中で街の様子を眺めていると、シャッターにスプレーの落書きがあったり、くすんだガラスのショップは中身が空だったりと、ハリウッド映画で観るスラム街のような場所もあった。伝統的な建物は日の光の下で見れば建築が見事で、それだけでも絵になる。西ヨーロッパにイメージされる華やかさだけなく、どこか退廃的な雰囲気を残しているのが東欧なのだろう。日本で見かける欧州車の他に、見たことのないエンブレムの車もたくさん走っている。
「時差ボケをしていませんか?」
「そうですね、普段から夜が遅いこともあったし、休みの日は昼夜逆転しているから、そんなに気になりません」
エリックの日本語がスムーズなので、亜希はつい普通にしゃべってしまった。しかし、エリックは単語を理解しているようだ。口調も穏やかで、やや低めの落ち着いた声音だった。
「昨日の人とは違うんですね」
「ええ、私が観光地へ案内しますよ」
車はブカレストの市街地を抜け、2車線のバイパス道路を走る。エリックの運転は安定しており、制限速度を守っているようだった。
「シナイアまで約2時間です。シナイアはとても美しいところです。これから向かうペレシュ城は19世紀に建てられたドイツ・ルネッサンス様式のお城です。ルーマニアの中で一番綺麗なお城ですよ」
「それは楽しみです」
シナイアは観光ガイドにも大きく取り上げられていた。いつの間にか道路は1車線になり、車窓には山里の風景が広がっている。道に沿って流れる渓谷の水は澄んでおり、涼やかだ。日本の田舎に似ている風景に親近感が沸いてきた。
「どうしてルーマニアに来ようと思いましたか?」
「・・・そうですね、きっかけは本なんです。本で修道院の絵を見て、それがたまたまテレビ番組で紹介されていて、ルーマニアにある5つの修道院だと知りました。それで縁を感じて、実物を見たいなあと思ったんです」
「5つの修道院も素敵な場所ですよ。きっと気に入ります」
「それに、これは出発を決めてからですが、ドラキュラ伝説にも興味があって」
「ヴラド・ツェペシュですね」
「ルーマニアの人たちは彼をどのように見ていますか?」
「彼は吸血鬼ではありません。とても厳しい人でしたが国の英雄です。今は観光資源として有名です。今日行くブラン城にはドラキュラのお土産がたくさんありますよ」
エリックは冗談めかして笑った。