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ワラキアの眠れる龍の伝説  作者: 神崎あきら
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空路、イスタンブール経由

 目を覚せば、ベッドの上だった。遮光カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。亜希は体中が汗ばんでいるのを感じた。生々しい夢だった。その場の肌にまとわりつく湿度、頬を通り抜ける風、土に混じる血の匂いをも感じた。なにより目の前に立つ男の姿が鮮明に瞼に焼き付いている。その姿はまるで恐怖そのものだった。薄闇が怖くなり、亜希はカーテンを開けた。屋根の向こうには青空が広がっている。亜希は寝る前に眺めていた龍の紋章の本を手に取った。最初に近いページに現れる紅い龍。黒い鎧の男の背から紅い龍が天を覆うように羽を広げている版画だった。周りの鎧を着た兵士たちが地面にひれ伏している。その鮮やかな赤色が目に焼き付いて、あのような夢を見たのだろうか。亜希は何だか恐ろしくなって本を閉じた。


 それでも、ルーマニアへの旅は楽しみだった。出発は5日後。久しぶりの旅行の準備は心が躍った。パスポートの期限は問題ない。現地で使う分のお金をいくらか両替した。ルーマニアはEU加盟国なのでユーロが使えるそうだが、現地でルーマニアの通貨レイにも両替した方がいいと聞いた。着替えに洗面道具、基本的な旅行セットを並べてスーツケースに詰める。中5日分の着替えをすべて準備したらスーツケースが埋まってしまったので、半分に減らして手洗い洗濯で乗り切ることにした。

 イーストトラベルから提案された旅程や航空券のe-チケットを印刷して行程を確認する。そうだ、常備薬を忘れてはいけない。ルーマニア料理は口に合うとはいえ、日本ではないので胃腸薬と念のためにロキソニンも準備した。それから、あの本。

「ご縁があったのはこの本からだしね」

 龍の紋章の本を肩掛けのバッグに入れた。なんだかんだと時間が無くてパラパラとしか見ていなかった。文字はどうせ読めないが、版画は隅々まで見れば細かい表現が発見できる。トランジットの待ち時間にでも読めば良い時間つぶしになるだろう。


関西国際空港の23時台発の深夜便でトルコへ飛び、そこから3時間のトランジットでルーマニアのヘンリ・コリアンダ空港へ飛ぶ。亜希にとっては初めての海外1人旅。海外旅行慣れした友人も多く、個人で航空券やホテルを手配して気軽に行く彼女たちの話をよく聞いていたが、いざ自分でやろうとすると勇気と労力がいることが分かった。気質の違いもあるかもしれない。亜希はどちらかと言えば心配性で内向的なところがある。それでも何か生活に変化が欲しかった。これは自分を変えるちょっとした冒険だ、亜希はそう自分を奮い立たせて飛行機に乗り込んだ。平日の便とあって、空席がぽつぽつ目立つ。これから12時間ほどのフライトだ。不安と期待のないまぜになった気持ちで窓の外に見える空港の灯りを見つめていた。飛行機は動き出し、滑走路へ向かう。車輪が地面を離れたとき、亜希は旅の無事を祈ってぎゅっと目を閉じた。


 エコノミーながらしばらくぶりに乗る飛行機は想像したより快適だった。飛び立ってすぐに機内食がでてきた。機内食が出るような便に乗るのも久しぶりだった。食事はそれなりに美味しかった。何時間か眠り、また食事。気がつけば空は白んで厚い雲に光りが射している。時折見える地上はどの辺りだろうか。イスタンブール空港が近づいたとアナウンスが流れ、飛行機は着陸態勢となった。


 すんなりイスタンブールに到着できて、ひとまず安堵した。乗り継ぎのため、スーツケースはそのままヘンリ・コリアンダ空港へ届くはずだ。これは心配だったので河合に何度も確認した。空港内に入ると、空調は効いているものの日本より温度、湿度ともに高いと感じた。周囲を見渡せばストールで顔を隠した女性たちがいる。有り余る異国情緒に海外にやってきたのだ、と亜希は実感した。周囲は西欧人やイスラム系の人が多い。アジア系は中国人旅行者だろうか、大きな声の賑やかな一団が通り過ぎていった。

 ルーマニアへ向かう飛行機の搭乗口をまず確認しておくことにした。大きな空港だが、地図はわかりやすく、目的の搭乗口はすぐにわかった。電光掲示にルーマニア行きの便名が表示されているのを見てホッとした。ショッピングコーナーへ行ってみると、トルコの土産が並んでいる。青いガラスの目玉のキーホルダーは確か魔除けだとか。色鮮やかなランプや絨毯など、珍しいものを見ているうちに小腹が空いてきたので、フードコートで軽食をとることにした。しかし、値段と食べたいもののバランスがどうにも悩ましい。旅先でケチってはいけないと思いながらも堅そうなパンのサンドイッチセットに1000円以上出すのも憚られて、悩んだ末に何も食べずに搭乗口へ戻ってきてしまった。自分は心底貧乏性だな、と亜希はしみじみ思った。


 なんだかんだと空港内を歩き回っているうちに、搭乗時刻まで1時間を切っていた。トイレを済ませて搭乗口へ向かうとすでにパラパラと乗客が集まってきている。見回してみるが、アジア人は数えるほどもいないようだった。亜希は搭乗口が確認できる位置の待合椅子に座った。手持ち無沙汰でどうしようと思ったところで龍の紋章の本を持っていたことを思い出した。バッグから取り出し、改めて表紙を眺めてみた。


 古い革張りの表紙は角が装飾金具で保護されている。龍の紋章が浮き彫りになるよう細工されており、表紙には重厚感がある。臙脂色の下地の中央の龍の紋章を囲むように金色の唐草文様が描かれている。厚みは5センチほど。本文は角が色あせてはいるが、紙はしっかりした材質で破れや折れはない。表紙の緻密なデザインはずっと眺めていても飽きない。

 気が付けば、隣に青年が座っていた。気配を感じない程に本に熱中していたのだろうか。他にも席は開いているのにわざわざ隣に来るなんて。亜希は身を固くした。

「ハロー、こんにちは」

「あ、はい、こんにちは」

 青年は片言の日本語で話しかけてきた。金色に近い薄い茶色の髪に、青い瞳をしている。西欧系のすらりと通った鼻筋に白い肌。年齢は20代か、見慣れない人種なので見当がつきにくい。笑うとまだどこか幼さを感じさせる容貌だった。亜希は内心緊張していた。海外で日本語で話しかけてくる人間はだいたいこちらを騙そうとしていると思っていいと旅慣れた友人から聞いていた。まさにそんなシチュエーションだ。

「日本人ですね」

「はい」

 亜希は平静を装っているが、どうやって逃げだそうか身構えていた。

「ルーマニアへ行くのですか?」

「そうです」

 ああ、こんなときに正直に言わなくてもいいのに。亜希は自分のバカ正直さにげんなりした。

「ルーマニアはとても美しい国です」

 なんでわざわざそれを言いに来たのだろう。亜希は相手の出方を頭をフル回転で考えていた。

「それは楽しみです」

 中学英語の教科書のように棒読みで返事をする。しゃべり方から日本語がペラペラという感じには見えない。

「その本、とても素敵ですね。ちょっと見せてもらえませんか?」

「あ、はい、どうぞ・・・」

 渡してしまった。青年は龍の紋章の本の表紙をじっと見つめている。中を見てもいいか、亜希に許可を得て、ページを一枚一枚丁寧にめくっていく。その顔からは先ほどのような愛想の良い表情が消えていた。

「とても古い本ですね。どうぞ大事にしてください」

 青年はにこりと笑ってそれだけ言って席を立った。亜希はバッグの中身の貴重品を確認した。本を読むふりをして財布や携帯を盗む手口だったら。結果的にそんな心配は無用だった。青年は向こうで飲み物を買っている。この近くから離れないということはルーマニア行きの飛行機を利用するのだろう。亜希はもうちょっと愛想よくすれば良かったかなと思った。警戒しすぎて顔が引きつっていたのが自分で分かった。


 搭乗のアナウンスが流れ、いよいよルーマニア行きの飛行機へ搭乗する。ここからまた2時間。飛び立ってすぐに機内食が出てきたので、フードコートのサンドイッチを買わなくて正解だったと思った。あの青年は近くにはいないようで、心なしか安心した。


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