異端者たち3
マクマリス歴六百十八年、七月九日、ヴォルフがグリフと出会う一週間前のことだ。
ルイン王国アルス通りは今日も平和だ。アイアス宮殿へ続くこの通りは鮮やかに飾られた宮殿を一目見ようとする観光客と王国に住まう若者、宝石商へ訪れる貴婦人たち、時折王宮へひた走る貴族の馬車、変わらない毎日、変わらない平和、すべてが普段通りだ。
サイードは前を歩いているウォーレン隊長の変わらない後ろ姿を見て、にこやかに歩む。
ルイン王国巡回兵、アルス通り勤務が主な任務のサイードたちはアルス通りを普段通りに巡回している。彼ら巡回兵の標準装備は鉄製の全身鎧にバックラー、ブロードソードと呼ばれる片手剣もしくは片手剣に木製の柄の槍となる。巡回兵にこれだけの装備を手配できるのは王国ぐらいで近隣国との格差は大きい。並の国では革鎧に申し訳程度で手入れがされている片手剣くらいだ。そして、その国力差を象徴する世界樹マクマリスが右手に見える。
周囲を歩む観光客は右手のマクマリスか左手のアイアス宮殿を子供のように目を輝かせ、記憶に焼き付けるようにまじまじと見ている。王国に訪れる観光客は皆、治安面に於いての懸念はないだろう。王都エレメンタルはもちろんのこと、最近は街道警備隊に国境警備隊が増設されたため、剽賊に襲われたという話は一切出ていない。
「暇そうな顔をしてるな、サイード」
横から声を掛けて来たのは同期で兵卒となったカウランだ。
「この暇な状況が一番平和なんだよ」
「真面目だなぁお前は、そんなに暇なら奴隷市場辺りを巡回したらどうだ」
意地悪い笑みを見せつけてカウランは品の無い冗談を言った。
ルイン王国には奴隷制が存在する。それは王都エレメンタルでも例外ではない。サイードのいる宮殿側から世界樹マクマリスを挟んだ向こう側には、大きな奴隷市場が今も賑わっているだろう。
「俺たちには無縁の世界だ」
奴隷市場のある方角をサイードは景色ではないどこか遠くを眺めながらカウランに答えた。
サイードたちが知る王都内の奴隷は人間、獣人、ハーフエルフと人種は様々で、奴隷と認定されるには王国軍が他国へ侵略し捕虜となる、借金を返済できない、罪を犯し逮捕される。などがある。奴隷には奴隷紋は付けず、代わりに烙印の付いた首輪を着用させる。この首輪には魔力が込められており、着用者は魔法を発動することができないように仕込まれいるため、物理的に暴れることはできても、奴隷が束になって反旗を翻すに至ることは過去に一度もない。
「ま、そうだわな……そうだ!お前、今晩暇か?」
サイードが向いた方角を見て、カウランは何かを思い出したようだった。平和が一番なサイードとしては、あまり関わりたくないというのが本音だ。
「なんだよ急に」
「こないだバッカス区の通りで色っぽい姉ちゃんのいる居酒屋見つけたんだよぉ……お前も付き合えよ!」
警邏中にも関わらず、だらしなく肩を組んできたカウランにサイードと後ろにいる同僚二人は少し驚き、僅かながらに怯えてもいる。
「嫌だよ、あそこあんまり治安良くないだろ」
「言うほど悪くはなかったから大丈夫だって、なぁ!」
「わかった。わかったからそんなに引っ付くな!」
怯える同僚たちに気配りせず、更に馴れ馴れしく振る舞うカウランに同僚たちの怯える根源が有頂天になったカウランに気付いて振り向いた。
「貴様ら!任務中だぞ、何をやっているカウラン!」
「し、しかし隊長、任務と言っても普段と変わらない巡回ですよ?ただの巡回、何もありゃしませんよ」
「だからと言って我々が腑抜けている訳にはいかないだろう、特に貴様はな!」
平和呆けした者らを怒鳴りつけるウォーレン隊長の表情はいつになく激怒しているようだった。警邏中でのこのくだりはいつものことだ。だからこそ、まるで別の任務を課せられているとサイードが推し測るほどに違和感があった。
巡回兵の隊長クラスが別任務を課せられる事は基本的には無い。手配人を捜索する事はあるが、それは巡回兵の全階級へ情報が共有される。つまり、巡回兵の隊長クラスが別任務を受けるということは、それだけ危険であり前代未聞であるということだ。
隊長の前で直立するサイードは本来聞かなくてもよい説教を聞きながら、心のどこかで不穏な空気を感じ取る。
この嫌な予感が当たらなければいいのだが。
賑やかで平和な時間がいつまでも続くようにと願うサイードは、右隣で醜く食い下がるカウランとは裏腹に真摯な態度で隊長の説教を受ける。
「貴様ら、兵舎に戻ったら素振り五百回だ!」
「そ、そんなぁ~」
最悪だ。
予感は別の形で的中した。
夕方になり、道行く者の姿が観光客から仕事帰りの者に変わった頃、彼らは人混みに紛れ巡回兵の目を欺き、プラネス通りの路地裏にある『鉄より降りし魂呼びの吟遊亭』という飲食店兼宿屋の地下、彼らの礼拝堂に集まった。
「司祭、集まりました」
短い報告に司祭のグリフ・ブラッディフィンガーは静かに頷き、戦闘用の装備の着付けが終わると、これから行われる計画に参加する教徒たちを見遣る。
一般の宿屋とは違う構造の「鉄より降りし魂呼びの吟遊亭」はヨナ魔導正教、プラネス区に於いての拠点だ。プラネス支部は一週間後に行われる作戦の前哨戦をこれから行うところで、これに失敗すると一週間後の作戦も遂行不能となる。
集まった教徒はグリフを除いた三十五人が規則正しく並び、皆、司祭のほうへ視線を向ける。
「信徒諸君、本日、我々は新たな歴史を創る一歩を踏み出す。この役目を果たすことができれば、我々の悲願達成に大きく前進するだろう。そのためには諸君らの篤き信仰と犠牲が必要となる……許せ。役目を果たすことができなければ、このプラネス支部は解体となる。今、この時間が、皆が集まる最後の時となるかもしれん。私はこのプラネス支部を歴史に残したいのだ。皆、そのために死力を尽くせ!」
司祭の演述を合図に作戦は決行され、プラネス支部の教徒らは一斉に動き出す。作戦のブリーフィング自体は先週の時点で済んでおり、各員に説明は不要だ。
二年。二年の歳月を掛け、ここまで来た。
本部から指令の書状が届いた時、グリフは気味好い気分に満たされた。忍耐強いグリフが待ち遠しいと思うようになったのはいつからだろう。
礼拝堂を出て階段を上り、拠点の一階部分へ行くと隠された廊下を出て薄明りの部屋に出る。緩やかに湾曲したカウンターテーブルに手をやり、懐かしむように優しく触る。
「司祭、馬車の準備が整いました」
振り返ると兵舎強襲班のシャルイーラの姿があった。非戦闘員を退去させ、僧兵を乗せた馬車を随時出発させている。次はグリフの出発する番だった。
「うむ」
「ご武運を」
短い会話を済ませるとグリフは幌付きの荷台の中へ入る。荷台にはグリフの他に僧兵が四人、御者も僧兵なので、合計で六人の僧兵が作戦区域へ赴くことになる。向かう先はアルス通り行政区画、財務府だ。残りの二十人はアルス通りの巡回兵兵舎とその奥に眠る王国の武器庫の一つだ。
御者が最後の乗員であるグリフを一瞥すると握った手綱を撓らせ馬を進める。
外は夕焼けがマクマリスを染めていた。グリフらが目的地へ着くころには日没となっている頃合いだ。通行人は昼間と比べ少なくなり、騒がしかった通りは静寂な通りと様変わりした。
襲来の夜は粛然とエレメンタルを迎えた。
燭台の明かりが踊る静謐な室内、今日の仕事も今から入れる紅茶を一杯ほど嗜み、後は帰宅するだけとなった。
宮殿の一角が覗ける執務室の窓から口元を少し誇らしげにして玉座の間がある屋根を見る。そして茶漉しの入ったティーポットを丁寧にカップへ注ぐ。
王都エレメンタル、アルス区にある巡回兵舎は最も古い歴史を持ち、王都で二番目に大きい兵舎だ。その巡回兵舎の最上階、三階にある兵舎長の執務室は一点の大きな絵画と添えるようにして六点の陶器が執務机を対面にして置かれている。
革の事務椅子に座り、正面の国王マティウスが描かれた絵画を眺め、ティーカップの取っ手を掴み紅茶をゆっくりと口へ運ぶ。
紅茶を飲み終えたタイミングで執務室の扉からドアノックの音がする。
「入れ」
兵舎長は立ち上がり、ドアノックの主を確認することなくティーカップとティーポットを片付け始める。
「兵舎長、お迎えの馬車が到着しました」
「うむ、少し待っておれ」
「畏まりました」
迎えの馬車が到着し、それを執務室前の護衛の兵卒が報告する。これが兵舎長の一日の仕事を納める流れだ。
ティーセットを洗うため、室内の小さなキッチンに付いている水道の取っ手を押し込み、水を汲み取ると今日一日使ったティーセットを洗う。
ティーセットを洗い終え、タオルで水分を拭き取り、執務室を出る。
執務室の扉を閉めたところで、何処か離れた場所から爆発音と共に兵舎が揺れた。
「な、なんだ今の揺れは」
扉に背中から凭れ掛かり息を荒げて走り込んできた兵卒に訴えかける。
「この施設が何者かに攻撃を受けています!」
「……まさか!」
兵舎長には心当たりがあった。
この巡回兵舎にはアルス区の治安維持の他に別の任務が課せられていた。
兵舎の奥には武器庫があり、倉庫内は王国軍が管理している。王国軍と巡回勤務の者は管轄が違うので一介の巡回兵が入ることは許されておらず、倉庫の外で警備を行っているだけだ。
兵舎勤務で倉庫内に入ることを許されている者は兵舎長とその護衛だけで、中に入るときは必ず王国軍の関係者が同行している。
「今すぐ動ける者を武器庫前に集めろ!」
命令を承った護衛の兵卒が即座に階段へ駆けていく。
頼むから杞憂であってくれ。
「我々も武器庫へ向かうぞ」
心の中で呟いたのち兵卒と共に階段を降る。
こんなことをするのは奴らしかいない、先日秘密裏に隊長格に手配した者だけの仕業ではないはずだ。倉庫内の武具を奪取されては私の面目は丸つぶれとなってしまう。
普段の紳士はそこにはおらず、兵舎長は人目を憚ることなく取り乱したまま武器庫へ向かっていった。
計画通りの状況だ。
爆散魔法で武器庫横に穴を空け、自身を除いた十四人の僧兵を倉庫内へ向かわせる。付近の巡回兵は片付けたので、増援がここに来るまでの時間は稼いだ。
私はこの騒ぎに紛れ、兵舎内に侵入し火を点け、距離を置いて待機させた四人の魔導師に長距離魔法による援護を受ける手はずとなっている。
人気の無い兵舎の隅へ隠れ窓を覗き、屋内を窺う。
先ほどの爆発で中は食器や食べかけの夕飯が散らばっている。どうやらここは、食堂のようだ。
シャルイーラは食堂に兵卒がいないことを確認すると窓を開け、軽々と兵舎内へ身を投げる。
「だ、誰だ、あんたは!」
厨房にいた人間がシャルイーラを見つけて叫ぶが、気にせず辺りを見渡す。ここでの目的は、この兵舎で火事を起こすことだけだ。
厨房内に入り、探していた食用油の壺を見つける。
王都で二番目に大きい兵舎だけあって食用油の壺は夥しい数で並んでいて、壺一つで大人一人が隠れられるほどだ。
腰に佩いた剣を抜くと、それだけで厨房の料理人たちは逃げ出した。それはシャルイーラが黒衣の装備で身を固めていることから、外の爆発に何らかの関与をしている事が窺い知れるからだ。
油の入った壺を抜き放った剣で全て叩き壊し、近くに備えられていた燭台の明かりを手に取ると、厨房の勝手口から顔を出し、辺りを見渡し余裕をもって外へ出る。兵舎の厨房は爆破させた倉庫側の反対に位置しているので、ここへ来る巡回兵などいない。
反対側の道では混乱した巡回兵が集められ騒がしくなっている。左を向いたら兵舎前の広場が少し見え、爆発の騒ぎで野次馬が集まっていた。
自分たちが長距離魔法の被害を受けるとも知れずに哀れなことだ。と思いシャルイーラは視線を変え、グリフの向かった方角を見て作戦の成功を祈る。
暗く静かな路地裏に、一つの明かりが放物線を描いた。
「一体何が起こっているんだ!」
「そんなこと知らねぇよ!」
巡回兵たちは混乱していた。集まった人員は百名にも満たない、僅か三十人程度だ。
兵舎内には未だ千人を超える兵卒が装備を着付けることに手間取っている。斯様な時に練度の未熟さが浮き彫りになってしまうのは日々の鍛錬を怠っているからであり、上官である兵舎長の責任でもある。
護衛の兵卒に偵察をさせたところ、武器庫横に穴が開いている事を確認した。先ほどの爆発によって空いた穴だろう。
既に何者かによって侵入されている。いや、何者かではない、この襲撃は魔導正教の奴ら以外にいるはずがない。
「……これ以上は待っておれん、今すぐ武器庫に向かうぞ」
「しかし、この人数では兵舎長を――」
「名誉の無い余生など要らぬわ!皆、行くぞ!」
三十人の巡回兵を引き連れ、爆発のあった武器庫へ向かう。
武器庫横へ着き、穴の空いた辺りを巡回兵に確認させた。戻ってきた巡回兵が言うには穴の近くに人気は無いとのことだ。
魔導正教の狙いは武器庫最奥に眠る魔石だろう。
「侵入者は武器庫最奥にいるはずだ。捕らえる必要は無い、迷わず殺せ!」
引き連れた巡回兵が武器庫内へ入ったところで兵舎長も後に続く。兵舎長自身の実戦経験は無い、しかし王国軍の武器庫が襲撃にあったとあれば国の大事だ。逃げられたとなれば国の恥となろう。巡回兵が集まる間に偵察に向かわせ、武器庫の襲撃が確定した事で付近の王国軍兵舎と騎士団宿舎、それから上官のいる官府に伝令を送った。
本心は軍関係者や騎士団に借りを作りたくはなかったが、背に腹はかえられない。
武器庫の中は静かなものだった。先行させた巡回兵は奥のほうへ駆けていき、付近にいるのは護衛の者が三人いるだけだ。
最奥に眠る魔石は王国秘蔵の品で、魔道具に使用することで強力な兵器にも成り得る。そのようなことになってしまえば、王国を危険に晒し、一族諸とも糾弾されてしまうだろう。
それだけは避けなければならないと思い、兵舎長は武器庫の奥へは向かわず、違う方向へ歩んで行く。
「兵舎長どちらへ?」
護衛の質問を無視して辺りを見渡す。
武器庫内の魔道具は見渡す限り奪われていた。だが、視界の端に僅かな光を捕らえる。
見るとそこには魔導正教の者らが回収し忘れた魔道具が木材の隙間に挟まっていた。
「これは魔導剣だな」
「魔導剣?」
魔道具のほうへ行き、挟まった取っ手を引っこ抜くと、それは魔導剣と呼ばれる武具があった。
魔導剣と呼ばれる武具に剣身は無い、あるのは取っ手となる柄だけで、一見ただの棒切れのように見える。
肝心の剣身は取っ手となる柄の内部に魔石が細工されており、柄や鍔の先から実剣で謂う所の剣身にあたる部分に魔法の剣身が現れ、無属性の魔法であれば半透明であったり、それぞれ属性の付いた魔法であれば、色の付いた刃や切っ先として現れる。
「こうやって使う」
柄に小さく盛り上がった部分があり、それを捻れば魔法陣の剣身が浮き上がり刃が見える。
護衛の兵卒たちが驚き、近くにいた者は少し後退りする。その直後に入ってきた穴の方向から一人分の急いだ足音が迫ってきた。
「兵舎長大変です!……巡回兵舎が燃えています!」
「何だと!?」
声の持ち主は騎士団に伝令として向かった部下の一人だった。伝令の任務を終えた後、騎士団の援軍と同行せずに急いでここへ戻ってきたのだろう、部下は息を切らしていた。
握り締めていた魔導剣の剣身を解除して、元来た通路を戻っていく。
踊らされている気分だ。
翻弄されるがまま完全に後手に回っていた。この時兵舎長は、この襲撃は万全の備えを以って行われたに違いないと確信を持つ。
しかし兵舎長とて、退役したとはいえ軍人としての意地がある。この広い天下で最も名高い、ルイン王国が王国軍の名に恥を塗る訳にはいかない。例え用意周到な作戦に対し、立ち回りで負けようとも。例え個人や集団の練度で劣ろうとも、王国軍人の誇りに懸けて逃げるつもりは一切ない。
王国軍人の誇りを胸に兵舎長は、明かりが広がる武器庫の外へ駆けていった。
最悪な一日だった。
カウランの悪趣味に巻き込まれ、二人でウォーレン隊長の前を歩かされたりと散々な一日だ。だがそれも過ぎた事。後は兵舎に戻り私服に着替え、カウランの奢りで飲むだけだ。
機嫌が戻ったサイードは薄明も過ぎて、すっかり人通りの少なくなったアルス通りを軽やかに歩む。それに引き換えカウランは背後からの恐ろしい視線に耐え忍び、これから散財する運命だと考えると気が晴れないという思いが全身に滲み出ている。背は丸く、足取りは重そうだ。
兵舎への帰り道、アルス通りを北に二本外れた小道で腰に剣を佩いた者と擦れ違った。
「なんだ?お前……怪しいな」
全身ローブこそ着ていないものの、マントを羽織り、黒のマスクを付け、後ろ髪を項辺りで結ったその者は松明で照らしても男女の確認まではできなかった。皆が警戒しているなか、ウォーレン隊長だけがひどく驚いている様子で部下に指示を下す。
「そ、そいつは手配人だ!剣を抜け!」
走り出す手配人、すぐさま追いかけるカウランとロガーツ。
「待て、深追いはするな!」
「カウラン!」
制止する声を無視してカウランとロガーツは手配人の後を追った。
咄嗟の行動とはいえ、我ながら良い反応で手配人に距離を詰めたとカウランは追いかけながら心の中で自賛した。流石に勤務時間外まで仕事をしたら、サイードと酒を飲む時間が無くなってしまう。それに、次いでと言っては何だが、今日あった嫌なことを全部こいつにぶつけてやりたい気分だ。
彼我の戦力差など、取るに足らない事だ。こちらは二人で相手は一人、自分は左手にバックラー、右手に松明、もう一人のロガーツは二年先輩の巡回兵で腰にブロードソードを佩き、両手で槍を持っている。振り向き交戦しようものなら後ろを走るロガーツが槍で一突き、そのまま逃げるなら時間の問題だ。奴の息が切れたところで捕らえて終わる。所詮は盗賊程度の輩だろうし、そんなに長くは逃げられないはずだ。
しかし驕り追いかけるカウランだったが、手配人は息を切らすことなく走り続け、こちらを一切振り向くことなく走る後ろ姿にカウランは違和感と不気味さを抱いた。
路地を幾度も曲がり、手配人の結った後ろ髪も見慣れた頃に長い直線の路地に出た。中々息を切らさない手配人に焦れる気持ちを抑え、追い続けるカウランはにやりと口元を緩めた。
「馬鹿め!そっちは巡回兵舎だ!今頃は巡回兵でごった返しているぞ!」
手配人が逃走している方向は巡回兵の兵舎のある方向だ。このまま狭い路地を走り抜けると巡回兵舎前の広場に出る。そうなると手配人は簡単に取り押さえられるだろう。
だが、様子がおかしい。
ここに至るまでの手配人はこちらを振り向くことはなく、向かっている先が巡回兵舎だということが分かっている様にも見える。それにウォーレン隊長の驚きようも徒ならぬ有り様だと言えた。
目的地が巡回兵舎だというのなら、一体何をするというのか。
「何だ!?」
疑念は兵舎へ辿り着く前に、最も悪い形でカウランの脳裏に一抹の不安が過る。
兵舎前の広場へ近付くに連れ、明るさが増している。確かに兵舎の辺りは人が多いので明るいことはわかっているが、路地の先は異様に明るく、悲鳴や怒号のような人声が乱れて聴こえてくる。これは広場や兵舎の明かりではない、何かが燃えている。
燃えている何かがはっきりと認識できる距離になり手配人が足を止め、黒のマスクを首元にずらし感嘆たる様子で燃え盛る兵舎を見つめる。
「始まる前に辿り着けないとは不覚」
始まるとは何の事だとカウランは辺りを見渡すが、燃え盛る兵舎を背景に、広場で惑う住民と混乱している巡回兵たちが見えるだけだ。しかし、この男の呟きはそのことだけを指しているようには見受けられない。嘘ではないのなら、これから何が起こるというのか。
眼前の手配人が発声し、男であると判明したがそのような情報など既に念頭に無く、カウランは唖然とする。
「何を……言っている」
思わず心の声が口に出る。
自分の部屋もサイードの部屋も、あの兵舎の中にある。今はもう炎の海に呑まれ、私物は全て掻き消されていることだろう。
困惑の声に反応した男はフフフと小さく笑い声を上げ、背後のカウランに翻った。
「知りたいか?小僧。これよりここは戦地となる。我らヨナ魔導正教が貴様らルイン派から真なる自由を手に入れるため、我が正義の剣を振るう時が来たのだ!今、ここで歴史の一端が刻まれる瞬間をその目でよく見ておけ」
言いながら両手を広げた男の背後に突如、どこからか長距離魔法が四発撃ち込まれ、巡回兵舎が爆散する。
爆風で持っていた松明は吹き飛ばされ、カウランは蹌踉けて尻餅を搗いた。
「おお、プラネス区の信徒も中々やるな」
再び振り返り木っ端微塵となる兵舎を嬉しそうに眺める男を前に、兵舎側から退避してきた兵舎長が四人の兵卒を引き連れ現れる。
「……貴様、手配人のフェリックス・ウルライヒだな?」
「如何にも、俺は魔導正教のフェリックス・ウルライヒだ」
「ふん、単独行動とは馬鹿な奴だ。お前たち、相手は一人だ。奴を生きて返すな!反抗勢力にこれ以上好きにはさせん!」
兵舎長の号令が下り、四人の兵卒がフェリックスに対して向かって行く。
「高々四人でこの俺を斬れるとでも思ったか!」
腰に佩いた剣を握り締め最初の斬撃を躱し、隙だらけの兵卒の喉元を狙って抜剣したと思えば、瞬時に兜と鎧の隙間を通して剣の先端で喉元を切り裂いていた。
透かさず二人がフェリックスに飛び込み斬りかかるが二人とも手首を払い落とされ、一人は喉元を突かれ、もう一人は腹部の鎧の隙間を切り払われ、ゆっくりと命を失う。
二人を倒した直後に最後の兵卒が勢い良く剣の刃先を向け突っ込んでくるが、身体を翻して躱し、その勢いで上段から首を跳ね飛ばした。
「口ほどにもない」
「なっ……」
いとも簡単に敗れた。カウランは起き上がる勇気も、逃げる判断力も失い、ただ味方が殺される姿を見ている事しかできなかった。ロガーツは戦闘に参加しようか迷っている間に事が済んでしまう。
剣に付いた血を振るい落とし、フェリックスは背後のカウランたちを見ることなくゆっくりと兵舎長に向かって歩んで行く。
「斯くなる上は……」
兵舎長はベルトに付けたバックから一本の柄のような棒を取り出した。
フェリックスは足を止め、様子を窺う。
一見、剣の柄のように見えるがその先が存在しない。戦闘などで欠損したというよりも、最初から剣身を使用しない用途で創造された逸品と見受けられる。故に歩みを止め、彼我の戦力差を推し測ろうとする。
眼前のフェリックスを睨みつけ、握り締めた柄の小さく盛り上がった部分を捻り、魔法陣の剣身が浮き上がり両刃の魔導の剣が出来上がる。
「ほう……それが魔導剣か、初めて見るが聞きしに勝る逸品のようだな」
外観から想像するに、無属性の魔導剣と見受けられる。剣身と刃が半透明で向こう側の景色が見え、どんな力を秘めているのか戦闘中だというのにフェリックスは心躍っていた。
兵舎長は胴の右に魔導剣を構え、幕開けの合図を手配人に送る。
「行くぞ!」
魔導剣を二度、素早く振るう。振るった瞬間に魔導剣の刃に沿って緑色の光が現れ、光は十字の鎌鼬となりフェリックスに向かって襲い掛かる。
魔導剣が輝いたと知覚した時には魔力の刃は迫っていた。ただ、知覚したと同時に羽織っているマントで身体を覆い盾にする。装備しているマントは魔導正教製で魔道具の一種だ。当然、対魔法防具として製造されており、魔力量によって左右されるが強力である長距離魔法を一回程度は防げる代物だ。
疾風の如く飛んできた十字の鎌鼬はマントによって防がれる。そしてフェリックスは瞬く間に兵舎長へ詰め寄り、勢いを保ったまま斜めから斬撃を放つ。
素早い斬撃を魔導剣で受け止め、振り払う兵舎長にもう一度剣を振りぬく。
やはり兵舎長は同じように斬撃を受け止め、それを振り払おうとした時だった。
右の脇腹に激しい痛みが襲ってくる。見るとそこには一本の短剣が深々と刺さっている。傷口から鮮血が溢れ出ており、おそらくは刃が肝臓に達し、それを貫いていると思われるほど胴が熱い。
「不覚……」
ゆっくりと老体は冷たい地面に崩れていく。
冷たい。
薄い意識の中で、朧げに浮かんだ言葉だ。握っている魔導剣を自らの意思とは関係なく弱弱しく手放す。背後の炎が広場から街へ明かりとなって照らしている様をぼやけた視界で知覚する。
体内は熱く、体外は冷たい。段々と弱くなっていく呼吸に焦る感情は無い、一騎打ちで敗北した記憶も、掌に乗っている魔導剣が誰かに拾われた今も、どこか昔のように思えた。霞んだ意識で今とは別のことを思い浮かべる。
父も、母も、このエレメンタル出身だ。息子も娘も、孫も、そしてこれから産まれる曽孫も。
妻は外の出身だった。
駐屯地付近の村へ隠れて遊びに行き、一人で放牧地を探索していた私は彼女と出会った。
丘上に短く生えた草の上で彼女は座り、子犬と一緒に景色を眺めていた。平和で幸せそうな、そんなただの田舎娘に私は惚れた。
その後の鬼教官の怒りっぷりは今でも忘れられない。
「ソフィ……ア……」
走馬燈を最後に兵舎長は自らの死を受け入れた。
世界樹マクマリス内部は穏やかな夜を迎えていた。
虫の音がちらちらと辺りの草叢からいきいきと聴こえてくる。
マクマリス内部は外からの夜光は入ってこないが、マクマリス内部は何らかの加護により、外の明るさと、さほど変わりない。一部の人間は人工的あるいは魔導的な光であると主張しているが、ほとんどの者が宗教的な観点から彼らの主張に関心を寄せることはなく、何ら疑問なく日々を過ごしている。
マクマリスの入り口には木組みの関所が設けられていて、一人銀貨五枚の通行料を支払うと関所を通れる。関所を抜けマクマリス内部に入り、最初に見えるのは正面の森林と右手にある螺旋状の大階段だ。関所から大階段までは石畳が敷かれ、大階段は横に広く馬車一台分の道幅と馬車が走れるように馬車二台分の坂になっていて、その大階段がマクマリスの内壁に沿って螺旋状に昇っている。そして大階段で足音を消して降りている人影が三つ。
ヴォルフらは人気の無い大階段で足音を消して降りていた。
松明も点けずに全身ローブでフードを被り足早に降りる姿は夜行性の動物のようだ。
魔導正教本部から下知が下った時は前回と同じく魂呼びの役目だった。しかし今回は前回と同様の儀式に必要な宝玉の奪取ではないと知った時は少し安堵した。前回は王国側の警戒がほとんど無かったから成功したものの、こちらの襲撃方法を理解したうえで、また王宮内の宝物殿に忍び寄るなど不可能だからだ。それに比べ今回の任務は儀式が失敗しない限り容易な内容だ。まずは王都内の魔導正教支部の者らが王都の要所を襲撃することから始まる。それに対してこちら側から彼らを援護するということはない。唯一の仕掛けは、この先にある関所くらいだろう。
内壁に沿って大階段を下り関所へ近づく、辺りを見渡す限りでは見張りの王国兵はいない。
「どうする?」
背後から聞こえた声はヴェルゲルのものだ。ヴォルフは振り返らずに声を小さくして答える。
「儂が門を破る、主は生き残りを片付けろ。アードリは不測の事態に備えくれ」
「わかった」
「あいよ」
ヴォルフの提案に背後から低い男の声と嬌艶な女の声が返ってきた。
ヴェルゲルの後ろにいるのはヴォルフのもう一人の仲間、アードリだ。茄子紺色の全身ローブを纏い、フードではなくとんがり帽子を被っている。薄黒く金属製の杖を握り、その先には宝玉があり杖が昆虫の足のように曲がり宝玉を包んでいる。
ヴァルケンは関所から十メートルほどの距離まで近づいて、右手でファルシオンを握り、関所の明かりで刀身が反射しないように身体を傾ける。
大階段を飛び下り、屈みながら草叢の中を静かに走るヴォルフは関所の正面の位置に着いた。距離にして三十メートルほどだ。その間アードリは二人の間に位置を取り、草叢に隠れ、万が一に備える。
周囲からは虫の音と関所のほうから笑い声が聞こえている。よもや、こんな時間に関所を通行する者などいないと完全に油断しきっていた。
ヴォルフは立ち上がり、手に持つ杖の宝玉を関所へ向ける。
魔力を宝玉へ込めるたびに、脈打つように宝玉が鈍い光を放つ。
最大限に魔力を溜め込む必要は無い。眼前の関所は木造で、更に王都の中心地で王国に歯向かう者などいるはずもないと彼らは考えているはずだ。その証拠に関所から見える位置で魔力を溜めていても誰一人として出てこない。おそらく関所内では酒と油断に溺れているのだろう。
半分程度の魔力を宝玉内へ溜めたヴォルフは眼前の愚者へ解き放つ。
「消え去れ」
掛け声とともに宝玉から炎神の息吹が放たれる。放った衝撃によりヴォルフは仁王立ちのまま後ろにずれる。放たれた炎の波は関所を破り爆散する。
爆散したと否やヴェルゲルが破れた関所の内門へ飛び入り生き残りがいないか確認する。すぐにいないことを確認したヴェルゲルは煙の舞った関所から顔を出しヴォルフとアードリへ合図を送る。
「急いだほうがいいな、外が騒がしい」
親指で先を示すと舞った煙はすぐに晴れ、その先には王都の夜景が目に入った。
ヴォルフたちは辺りで舞う火の粉を避け、崩れかけの関所を急ぎ足で通り抜け、王都に出る。
「何だ?」
三年ぶりに目にした王都の夜はやけに明るかった。関所を出て反射的に明るい西側に目を向けると、何キロも先だがかなり大きな建物が燃えていることを視認できる。どうやら我々と志を同じくする者が戦っているようだった。
「向こうも気になるが儂らにも役目がある、ひとまずマリアム通りに潜伏するぞ」
振り返り、異議がないか二人と顔を合わせ確認する。二人とも異論はないようで無言で頷いた。この後も戦闘になる覚悟をしていたが、都合の良いことに遠くのほうで騒ぎが起きている。こちらの爆音に気付いても距離が遠く、駆け付けたところで間に合うまい。
幸先の良い始まりに、ヴォルフは晴れた気分で南の深い闇の中へ走り去って行った。
逃げた手配人をカウランとロガーツは隊長の制止を聞かず、追いかけていった。残ったサイードらは急いでカウランたちの後を追おうとするが、事態の異変に気付く。
「隊長、兵舎の方向に明かりが!」
「何!?」
仲間の一人が指を刺して声を上げ、サイードは兵舎の方向に振り向いた。
辺りの建物で遮られ直接見ることはできないが、薄明は疾うの昔に過ぎたというのに向こう側は夕陽の如く明るくなっていた。兵舎の辺りで、明かりが火脚の速さで広がっている。
「急いで兵舎に戻るぞ」
「カウランたちどうするんですか」
「今はそれどころではない、行くぞ」
隊長の一声で、皆が兵舎に続く道を駆け、そしてその道中で事は起こる。
付近の建物の上から何かが走り去って行き、サイードはその残光を知覚した。すぐに爆発音と振動が辺りを襲う。
「今の爆発は何なのでしょうか?」
「俺にもわからん……とにかく、今は兵舎へ向かうぞ」
サイードらが進んでいる方向にあった四度の爆発の後、見上げると爆発のあった方角が更に明るくなっていた。
誰もが嫌な予感を過らせ、明るくなった方角へ走って行く。
明かりの根源に近付くほど確信めく予感、それは自分たちの住処ではないか、と。
狭い路地を曲がり、まっすぐな道に出る。ここを直進した先に巡回兵舎前の広場がある。巡回兵舎の方向を見ると二つの人影がこちらに近付いて、目を凝らすとカウランとロガーツが絶念の表情でサイードらに向かって駆けて来た。
「カウラン、ロガーツ何があった!?」
「隊長、魔導正教です!魔導正教の奴らが攻撃を仕掛けてきました!」
「何だって!」
驚くサイードと、やはりかという顔色のウォーレン隊長。道の先にある明かりは魔導正教によるもので、この先の広場は修羅と化していることだろう。
「それで兵舎長が追っていた手配人と交戦して戦死しました」
「何!?兵舎長が戦死か……」
あからさまに動揺するウォーレン隊の巡回兵たちにウォーレン隊長は次の任務を与える。無論、これは上からの命令ではなく、ウォーレン自身の判断によるものだ。混乱した現場で、上からの指示を待つ者など、ここにはいなかった。。
「これよりウォーレン隊は巡回兵舎に向かい救助、支援にあたる。万が一、魔導正教に遭遇した場合、五人で固まり一人ずつ排除する」
「無理です!あいつらと戦っては駄目だ!兵舎長が魔導剣を持ってしても討ち死にしたんですよ!?俺らじゃ命が幾つあっても足りませんよ!」
「厳しい戦いになることはわかっている。だがな、俺たちがこうしている間にも味方がやられているんだ。それを見過ごす訳にはいかんだろう」
「しかし!」
「カウラン!これは命令だ!」
「……わかりました」
「よし!お前たちも異論ないな?」
全員が沈黙して、ウォーレン隊の次の行動が決まった。
皆は大丈夫だろうか。
サイードは兵舎にいる仲間の安否を案じた。
兵舎前の広場に着いた頃には、どこを見ても巡回兵舎の面影はなかった。サイードの瞳は眼前の業火に照らされ、案山子のように立ち尽くす。巻き込まれた者が助からないことなど、考えるまでもない。
「ウォーレンか!?」
事態に驚愕するウォーレン隊の隊長に声がかけられる。見るとそこには付近を巡回していた別の巡回隊の隊長だった。
「まだ倉庫のほうで交戦が続いているらしい。俺たちは倉庫へ向かう、お前らは逃げ遅れた住民の避難に当たってくれ!」
「わかった……よし、作戦変更だ。サイード、カウラン、お前たちは付近に怪しい者がいないか巡警しろ、増援が到着したら状況を報告するんだ。俺たちは逃げ遅れた住民の避難と負傷者がいないか辺りを回ってくる」
「御意!」
カウランが拱手してからウォーレンたちは広場から離れていった。
兵舎の壁が崩れ、そこから現れた散らばる家具や燃える衣類をサイードは愕然と見ている。ウォーレンの指示も、カウランの呼びかけにも、サイードの耳には届かない。
燃えている。ただその一言がサイードの心を留めていた。
新兵の訓練課程を終え、ここに配属された思い出も、皆で夜更けに騒いだり、風呂掃除をさぼり、隊長たちに丸一日怒られていた記憶も、全てがこの兵舎に詰まっている。
崩れ去ってもなお燃え続けている兵舎の中には、何人の友が犠牲になったのだろうか。
兵舎の周囲は、あの噂の絶えない倉庫を除けば、全ての建物が道を挟んでいるので、燃え移りはまだ見られない。だが、炎の代わりに吹き飛んできた瓦礫が付近にある民家の一部を壊している。辺りの建物が燃えるのは時間の問題だった。
このようなことが許されるわけがない、魔導正教の奴らの目的は一体何なんだ。
サイードたちがアルス区の兵舎に配属される以前から兵舎の隣にある武器庫は隊長格の巡回兵でも入ることを許されていないため、兵舎内では噂が立っていた。
武器庫には地下通路があり、それが王族だけの隠し通路だとか、魔剣があるとか魔石が秘蔵されている、などと様々な噂が兵舎内で飛び交っていたあの兵舎は、今や王都を照らす明かりとなっている。
今の自分ではどうにもできないもどかしさをサイードは感じていた。
近くに集められた遺体を見遣ると、その中に兵舎長の顔があった。そこでサイードはカウランが魔導剣という言葉を口にしたことを思い出す。
「カウラン、魔導剣って何だ?」
隣で呆然とするサイードに声を掛けていたカウランは予想外の言葉を掛けられ、きょとんとした表情をする。その後に兵舎長と手配人の闘いを強張った顔で語った。
アイアス宮殿の森閑とした離れにグリフはいとも簡単に侵入していた。ここから少し離れたところにある居住区画を窺うと、親衛隊と思しき兵卒とごつごつとした鎧を纏う騎士のシルエットが、その奥からははっきりとは分からないが、王族か官吏の者が柔らかそうなローブを羽織った姿が小さく見える。
城内の警備が薄いとも知らずに呑気な奴らだ。と、胸中で嘲笑するグリフはその場から離れ、少し薄暗いが見通しが良く真っ直ぐな石畳の通路を堂々と歩く。
暫く歩いていると左手にこぢんまりとした礼拝堂が見えた。
王宮の離れに礼拝堂があるのは別段不自然というわけではないが、なんとなしに引っ掛かったグリフはそっと扉を開き、中に人がいないことを確認して、ゆっくりと警戒し入室する。
こぢんまりとした礼拝堂内は六つの燭台に火が灯されていて、中は薄暗く、王宮内にしては地味な造りという印象をグリフは持った。
祭壇に近付いたところでグリフの頬を弱い風が煽る。
床を見ると僅かだが切れ目が入っている。巧妙に隠されてはいるものの、潜入に長けた者が見ればすぐに見つかってしまう程度の物だ。王国にはこういった類の専門家がいないのだろうか、そうでないのであれば王国は隠し事が下手らしい。
足下にある隠し扉を開き、石の階段を目にした。先は暗く、奥に何があるのか皆目見当がつかない。隠し扉とその継ぎ手の劣化具合や石の階段の擦り減り方を見る限り、この通路は少人数の者が利用していたようで、最近頻繁に出入りしている形跡があった。
階段の先、暗闇から小さく物音が聞こえる。奥に誰かいるようだった。
隠し通路の先へ忍び寄る。
グリフの行動は他の僧兵とは違い、少し前に流れた噂の調査だ。
少し前に王都のどこかで人間を魔人にする実験が行われているという噂が王都内の魔導正教に流れた。
その噂の調査をするため、グリフは単身で王城に潜入した。噂の出所は判明しておらず、罠の可能性もあるのでグリフは他の役目の支障が無いように行動している。
薄暗い通路の先に弱弱しい明かりがある。通路の先は少しだけ広がった空間があるようで、その先から微かに人の気配がした。
警戒して進むと小部屋があった。小部屋には中央に下に降りられる梯子があり、グリフは不快な感覚を抱いた。階段からここに至るまでの通路、辺りのじめっとした湿気とその先に至るこの小部屋までが黒ずんだ石で築かれた石造りの地下施設で、宮殿とは逆の不潔なイメージを思い浮かべたからだ。
音を立てずに梯子を下りると、三方向にT字で通路が別れている。
三つの通路の一つが頻繁に使われているのか、他の二つと比べ僅かに擦り減った跡が残っていた。進み先が決まったグリフは、腰に並べて佩いている五本のナイフのうち一本を抜き取り、逆手で握り締め、足音を消してそっと歩む。
瑠璃色の明かりが先の室内から通路に零れ、湿った空気を強く感じさせる。
僅かな義務感に押され、ゆっくりと歩み、明かりが漏れている開きかけの扉の前に立つと、グリフの奥底から好奇心が沸き起こった。
音を立てないようにそっと扉を開くが建付けが悪く、周囲に軋む音が鳴り響く。
「誰だ!?」
何者かに気付かれたグリフは勢いよく扉を開いて、そのまま戦闘態勢を整える。
だがグリフの前に立つ者は、戦いとは無縁と思えるほど腹に贅肉を抱えた初老の男だった。
「む……お前は枢機卿のダラープか、ここで何をしている」
「いかにも儂はブーティン・ダラープじゃ、何故ここにいるかとはどういうことじゃ、お主らが儂をここへ避難させたのであろう?」
グリフの眼前に現れた者はマクマリス教の枢機卿ブーティン・ダラープだ。どういうわけだかグリフを何者かと勘違いしている様子だった。
(このまま話を合わせるべきか……)
「直に騒ぎは収まる。明け方には大聖堂に帰れるはずだ」
「おお、そうか、それは良かった。ここにいることが知られれば主らと共倒れじゃからな」
室内を見渡すが複数の事務机と椅子があるだけの何の変哲もない部屋だった。ダラープの発言から一拍置いて口を開く。
「ここへは誰が連れて来た?」
「名など知らん、皆同じような物を羽織っておるしな。隣の部屋の魔人と二人きりというのも身の毛がよだつ話よ」
「……その者の様子どうだ?」
「どうもこうもない、磔にされたまま眠っておる」
グリフへの警戒を解いたダラープは背後の椅子に重い腰をゆっくりと下ろす。
「それよりもお主、儂に頼み事があるのであろう?」
「頼み事だと?」
「惚けなくともよい、ここを使っている連中も儂の権限あってのものじゃ。無論、外部の者には内密であるがな。」
「どの程度の事ができる?」
「大抵の事はできるが、それなりの額は支払って貰わねばな」
眉を歪ませニヤリと笑うダラープは王都の腐敗を象徴するようであった。しかし、これを利用しない手はない。
グリフは僅かな時間でダラープの最も有効な使い道を考える。
「枢機卿の印綬は持っているか」
「もちろんじゃ」
「では魂呼びの儀式でもう一人呼んでもらおうか」
「それは……」
魂呼びの儀式では他の司教や教会が叙任した騎士である聖騎士が寄り集まる。ダラープが躊躇うのはこのことだろう。
「大抵のことはできるのだろう?」
「いや、しかし」
僅かに間が空きグリフは首に掛けていた一本の鍵を取り出しダラープに見せる。
「金貨を千枚用意できる」
「何!?金貨千枚とな!」
ダラープの顔からみるみると葛藤の色が抜けていく。
「して、その金貨はどこにある?」
「承諾したら教えよう」
「……わかった、やろう」
「ベルス区の大通りにチャリオンという運び屋がある。そこの倉庫に入って三番目の馬車の奥に鋼色の箱があり、その中に金貨が千枚入っている」
「運び屋はそのことを?」
「知っている者はいない。中身を知っているのは私と極一部の者だけだ」
依頼を快諾したダラープはすぐに儀式を取り仕切る教会宛てに書状を認める。腐敗した聖職者は容易に金で釣れた。
書状を書き終えると封蝋を施し、何の躊躇もなく枢機卿の印綬を押すと、上機嫌で立ち上がる。
「この騒ぎはベルス区まで広がるのか?」
「ベルス区が騒ぎになることはないが……今から行く気か」
「騒ぎにならぬというのなら当然じゃろう」
腹の肉をゆさゆさと揺らし急いで外へ出ようとしたダラープは扉の前で振り返る。
「ご苦労じゃったな、お主名は何という?」
「名乗る名は無い」
「そうじゃったな」
そう言うと上機嫌で腹を揺らしながら暗闇の中へ消えていった。
「……私の金ではないがな」
腐敗した聖職者を出し抜いたグリフは隣の部屋に向かう。
扉を開けると床に魔法陣が描かれ、中央の台座に青い肌で無精髭の男が磔にされていた。
男はグリフに気付き、朦朧とした様子で口を開いた。
「誰だ……ここの連中ではないな」
「私はグリフ・ブラッディフィンガーという者だ」
「ブラッディフィンガー?……プラネス区の司祭か……」
「今助けるからな」
グリフは男の手枷と足枷に視線を移し、それからすぐに男に視線を戻す。
「鍵がどこにあるかわかるか?」
「鍵など無い……もうとっくに処分されているはずだ。……今は鎖を壊す以外に無い」
「わかった、少し待っていろ」
鎖に掌を当てる。
グリフはそっと目を閉じ、掌に意識を集中して体内の魔力を集める。
次に目を見開いたときには鎖は潰れ、砕けていた。
「……無属性魔法か」
「黙っていろ」
会話をしているうちに残る三ヶ所の鎖を砕いた。
「少し揺れるがここに居るよりはましだ」
雑に担いだラムエルは驚くほどに軽かった。体重からしても憔悴していることは明白で、急いで吟遊亭に戻る必要がある。
だが元来た道を戻ろうとするも、そこから数人の足音がする。
(ダラープに時間を掛けすぎたか)
相手の戦力は不明だ。
元より魔人を研究していた連中だ。戦闘要員が二、三いても不思議ではない。ラムエルを担いだ状態では戦いようがなく、況してやラムエルを置いて戦っては本末転倒となるだろう。足音からして複数人いる相手は研究対象を置いたと見るや、グリフを釘付けにし、ラムエルを攫って逃げ果せるはずだ。選択肢があるとすれば元来た道とは別の道に逃げるということくらいだった。
「ええい、儘よ!」
グリフは意を決して、見知らぬ道の暗闇へ駆けていった。
アルス区の業火は留まることを知らず、世界樹を照らす明かりは次第に広がっていった。
「おお、アルス区が地獄の炎で焼かれていくぞ」
感嘆たる思いで口を開いたフェリックスは、広場から少し離れ、風上にある倉庫の屋根に我にも無くといった面持ちでいる。
フェリックス・ウルライヒはグリフらプラネス区の者ではなく、バッカス区の魔導正教教徒で、本部の協力要請、況してや現地の協力要請など受けてはいない。フェリックスは独自の判断で行動し、そしてこの光景を食い入るように眺めている。故に他の魔導正教教徒から煙たがられている存在であることは想像に難くない。
燃える家屋に見飽きたら、躊躇なく屋根から狭い路地の石畳に飛び降りる。
「では俺もアジトに戻るとするか」
「そうはさせない!」
声の持ち主は見覚えのない兵士だった。
青年の顔には怒りと憎しみが込められている。両手で魔導剣の柄を握り、今にも斬りかかりそうな雰囲気だ。
まだ見ぬ魔導剣に心躍る心境を抑えて、挑発を試みる。
「ひよっこ一人で、このフェリックスを止められると本気で思っているのか?」
「舐めるなぁ!」
相手が斬りかかる体勢で突っ込んでくる。フェリックスはその分だけ距離を取るため、後ろに下がる。
いくら腕利きのフェリックスといえども、相手の魔導剣の効果を何も知らないのでは慎重にならざるを得ない。
仕切り直しとなった一騎打ちは、先ほどと同様に新兵から仕掛けてくる。
新兵の手元から魔導剣の魔法陣が展開され、氷の刃が現れた。それと同時に剣を振り抜き、氷の礫がフェリックス目掛けて飛翔する。
即座に下段から魔導剣の魔法陣を展開させ、風の刃で振り払う。
「氷の属性とは面白い、貴様、それをどこで手に入れた?」
「お前の仲間が荒らした倉庫に残ってたよ」
上段から素早く振り下ろしてくる。それを頭上で受け止め、鍔迫り合う。
「俺の仲間というわけではない」
受け止めた刃を振り払った瞬間、背後から気配した。視線を移すとそこにはもう一人兵士が上段から剣を振り下ろしてきた。
「ええい!」
振り返り、腰に佩いた剣を左手の逆手で素早く抜剣し、払い流す。
「カウラン!俺一人でやるって言ったろ!」
「いんや、お前一人には任せておけないね」
「猪口才な、ひよっこがもう一人増えたところで何も出来はしない」
「言ったな!」
魔導剣の兵士が勢い任せで氷の礫を飛ばし、背後からはカウランという兵士が呼応して斬りかかる。
単調な動きだった。魔導剣を持つ相手だけに期待していたが、落胆しつつ魔導剣で払い、斬りかかるカウランを順手に持ち替えた剣で受け流す。
剣を打ち合っていると、傍にある倉庫の扉から何者かを担いだプラネス区の司祭が現れ視線が重なった。
「お前はプラネス区の」
「助けが必要か?」
「ふん、お前の手を借りるほどではない」
遊びの時間は終わりといったかのようにフェリックスは全力で魔導剣を振り抜いた。
踊り狂い、迫る鎌鼬に眼前の兵士は慌てて下から上に魔導剣を振り抜き、地面から大きな氷柱の塊を出現させるが、無惨にも氷柱は貫き砕かれ、勢い余った鎌鼬は眼前の兵士を吹き飛ばした。
次にカウランの方に向いて睨みつける。先程までの威勢のよさはなくなり、相手は怯えた表情に打って変わる。右から左に魔導剣を振り抜き、鎌鼬を飛ばす。
それは鎌鼬がカウランに襲い掛かる瞬間に訪れる。
側面から石畳を壊しながら土壁の波がカウランを守るように鎌鼬の行き先を塞ぎ、突き当たった鎌鼬は土壁を崩すことなく消えていった。
「何者だ!」
土壁の波に沿って目をやると、プラチナ色の鎧を纏った騎士が一人立っていた。
「我が名は白龍騎士団団長、ケルビム・クリストファーライト!マクマリス教大司教スピネル・モンチセリの命により、助太刀いたす!」
「くそっ!聖騎士まで出てくるとはな……おい司祭、手を貸せ!」
言うと同時にグリフの方に振り向き、フェリックスは驚愕する。
すぐ近くにいるはずのグリフがいない、しかし探し当てる時間は一秒と掛からなかった。
グリフは遠く路地の先、豆粒の大きさになってもなお振り返ることなく逃走していた。
「チッ、あの根性なしが……」
正面の聖騎士に向き直り、不慣れな二刀流の構えで相手を見る。
魔導剣の鎌鼬が掻き消されたのは相手の剣か魔法か、判断はつかなかった。右手で握る艶やかな剣には剣身があり、魔導剣のそれとは構造が違う。だが、何の魔法付与も付いていないとは相手の身分からして到底思えないことだ。眼前に仁王立ちする騎士はマクマリス教の教会から叙任された騎士、つまり聖騎士であり、その団長だ。
三対一となって形勢が変わり、フェリックスはあからさまに不承な形相になる。
その変化を悟った聖騎士は剣を振り、風属性の魔法を放つ。こちらに向かって踊り狂う鎌風は魔導剣のそれと相違ないようにフェリックスの目には映る。
聖騎士に呼応してこちらも魔導剣を振るい同じ風魔法で相殺する。側面から威勢のいい雄叫びとともに魔導剣を握った兵士が近付き、間髪入れず正面の盛り上がった土壁に向けて魔導剣を振るい、周囲に土煙を舞上げる。それでも側面の雄叫びは止まらず、土壁の先からも聖騎士が向かってくる気配がした。
何度か魔導剣を振るい、周囲の視界が完全に効かなくなったところでカウランという兵士のいる方向へ全力で走り出す。奴は今、戦えるような気概は無いはずだ。睨みつけた時の表情ですぐに分かったことだった。だが運は良い。死を悟った瞬間に聖騎士が現れたことがその証拠だ。それに仲間の兵士には進取の気性がある。魔導正教が襲撃した倉庫から奴らが残した魔導剣を持って挑んできた。その目から溢れ出んとする気概と胆力を感じた。今は大した強さを持っていないが、いずれフェリックス・ウルライヒに立ち並ぶ好敵手にならんとする風格が奴からは見える。
「小僧!名はなんという」
「サイードだ!サイード・イノシュエード!」
「覚えていろサイード、次に会ったときは決着をつける!さらばだ!」
「待て、フェリックス!」
土煙から飛び出し、王都の狭い小道の先へ駆け抜けた。
背後の業火で行く先の土煙が照らされ視界は完全に無くなった。
それでもサイードは足を止めるつもりはない。手配人に討ち取られた兵舎長と今なお世界樹を照らす業火に焼かれる仲間の敵討ちだ。
土煙の中を駆け抜け、倉庫街の小道に出ると同時に身体に衝撃が走る。
何者かにぶつかったのだ。
一瞬、フェリックスかと勘繰るが、体に走った衝撃は余りにも弱く、サイードの足腰が揺らぐことは無かった。
見ると、そこには誰とも知れない少女が倒れていた。
「どうした、サイード」
背後からカウランが小走りで向かってくる。彼に怪我はしていないようだった。
「誰だよ、この娘は」
「わからない、土煙を抜けた時にぶつかったんだ」
「君、大丈夫か?」
肩に触れ彼女を揺するも目は開かない。
「だめだ、気を失っている」
「君たち、怪我はないか」
後ろから声を掛けてきたのは間一髪で助けに来た聖騎士だった。プラチナ色の鎧とは対照的に黒髪の長髪で美青年といった顔立ちだが、サイードたちとは一回り年上のはずだ。
「聖騎士様」
「奴はどうした」
「申し訳ありません、逃しました」
「構わんさ、大事無ければな、それでその娘は」
「手配人を追っている時にぶつかりました。頭を打ったようで、気を失っています」
「広場へ向かうと良い、騎士団の救護所ができている頃だろう」
「わかりました。聖騎士様はどちらへ?」
「私は部下の報告を聞かねばならない、ここでお別れだ……君たち名前は?」
「王都常駐軍、アルス区アルス兵舎所属、巡回兵サイード・イノシュエードです!」
「同じくカウラン・キースです!」
「そうか……覚えておこう。今日の出来事は始まりに過ぎないかもしれない、サイード君、その魔導剣は君が持っておけ、いずれ手配人と手合わせするかもしれないからな」
「承りました!」
直立した二人に聖騎士は嫌味の一つ言うことなく、清廉な面持ちで去って行った。