異端者たち2
薄暗い部屋、顔面を照らすゲーミングモニター、ヘッドホンから小さく漏れ出す人の声。廉久は日課となった動画サイトを開き、楽し気な口元でゲーム実況を視聴していた。
物静かに画面を見つめる男は清盛廉久。緩やかなへの字眉毛と少しばかり人相の悪い顔立ちは、洗練されたような名前のこの男には不釣り合いと言えるだろう。
腰掛けたゲーミングチェアの後方からはシャワーの水の弾ける音が薄っすらと聞こえている。
廉久は二人暮らしだった。部屋は一人暮らしが適度な広さで、テレビにテーブル、ダブルサイズのベッドを加えると二人暮らしには少し窮屈な空間だ。空間に溶け込んでいる廉久からすれば二人暮らしに苦労はない。その生活が当たり前になっている廉久には愛着が湧いている事が窺い知れる。
ヘッドホンから漏れ出るゲーム実況の楽し気な音と声が廉久の口元を緩めている。しかし緩んだ口元とは対照的に、画面を見つめる眼差しはどこか開きがある。
それは廉久が学生の頃に起きた事だった。
母子家庭で貧しかった廉久はある日授業が終わるといつものようにアルバイトのため、すぐに繁華街へ向かった。母は母でパートを掛け持ちした忙しい日々を送っている。
母は温厚な性格で、貧しい生活であっても廉久に当たることはなく、廉久もまた、貧しい日々を送っていても、心までは貧しくなかった。
普段通り仕事が午後の十時に終わり、廉久は疲れた体を休めるように少しゆとりを持った歩幅で自宅へ向かう。それが当時の日課であった。
しかしこの日だけは違った。
その日、廉久は十七歳の誕生日を迎える。誕生日は決まって母が仕事を早く切り上げ、手作りのケーキを焼いてくれるのだ。毎年祝ってくれる母の幸せそうな微笑みは、学校で浮いている廉久の唯一の励みになる。
午後十時三十分、自宅のぼろアパートに着く。
自宅に明かりは灯ってなかった。違和感はあったものの、母はまだ仕事をしているのだろうと思った。
今日で十七にもなるのだ。いずれ就職し、生活が安定して、母に楽をさせている頃には老いていて、一人にさせるわけにはいかず、この先独立することもないだろう。ともすれば、誕生日のケーキを焼かなくなるのは、今の年頃が適切であろう。
そう思考した廉久は少し寂しいが祝ってくれる母がいるだけで十分だと思いながら、玄関を開いた。
視界が効かない暗闇のなかで、靴を脱ぎ居間に足を進めると、無垢材で敷かれた床がミシミシと音を立て、古めかしさに拍車が掛かる。
居間に辿り着き、ちゃぶ台の上にある電気の引き紐のスイッチに手を掛け、それを引いた。明かりが満ちた空間に、真っ先に目に入ったものは畳の上、無惨にも四方に散らばる黒の髪の毛だった。
散らばった毛先からゆっくりと震えるように髪の持ち主へ視線を移し、顔を見る。
それは紛れもなく母の顔だった。
すぐに声を掛けたが意識は無く、それから先のことはよく覚えていない。医者の言葉が念仏にように聴こえ、暫くして親戚が訪れた。
走馬灯のように葬儀が済み、そこで見た母は安らかな顔をしていた。
背後の扉が開かれる音がする。
「またテレビ付けっ放しじゃない」
部屋の照明が点き、背後から微かに聞こえる穏やかな怒鳴り声は同居している清盛静のものだった。
気が付くと少し時間が過ぎていた。
座面を回転させると、そこには廉久の妻がいて、普段通りの怒っていない顔で怒っている。このやり取りは日常的に起きていることが静の表情から窺い知れる。初めは真剣であった静の表情も段階的に薄れ、今に至ることだろう。
それから右手でテレビのリモコンを少し荒く掴み電源を切り、こちらに視線を移す。
清盛廉久は既婚者だ。妻の静と無職で手狭くも平穏な生活を送っている。廉久はひと月前に無職となり、その時は後悔など無かった。社会人時代は働き得た給与をひたすら貯蓄していたので、今はそれを少しずつ切り崩している生活だ。
妻の静との出会いは母の葬儀だった。親戚の人が言うには、なんでも遠戚だとか。
静もまた、父一人、娘一人の家庭環境であった。
お互いの事情を知った二人は、初対面であっても互いに理解し合っているような気分で、打ち解けるまでに時間が掛かることはなかった。
踊る唇に目をやり、ヘッドセットを外す。
聴こえてきた耳が痛くなるような小言は廉久の目を止めることは無く、温まった肉体の上に添えられたキャミソールとホットパンツを認識した直後に、まるでサキュバスに視線誘導されているかの如く、静の爪先を始めゆっくりと吟味するように太腿を越え、中腹のキャミソールの上からでも知っている少し引き締まった腹部、そして目的地の広大な双丘と崇高な大峡谷である大きめの乳房に目をやる。
静の顔に視線を戻した頃には小言は終わっていて、少し口元を緩めていた。小言を聞いていないことは既にバレているがショートカットを揺らす眼前の整った顔からは怒りの感情は感じられない。この美女の少し緩んだ表情は、どこか廉久を哀れんでいるように思える。
対峙する女神の哀れみは廉久への愛を物語っていた。
廉久は過去の仕事ぶりや身体能力が平凡、身長は平均的で目立った特技も無く、少し人相の悪い顔立ちだが、見掛けに寄らず素行に悪いところはない地味な人間で、そんな平凡な人間でも唯一の特筆すべき点は女神のような妻に愛されているということぐらいだ。
自身に特筆すべき点がない廉久であったが、それを自覚するにつれ、他人を妙に観察する習慣が付いていた。
妻しかいない。視点を変えてみると、静だけが唯一の財産という考えにもなるが、廉久はそれだけで十分だった。母を苦しめた運命にも感謝すべきなのかもしれない。そして生きていくうえで静以外の全てを譲ることも厭わないとすら今は思っている。それが廉久の静へ向ける思いだ。
偶さかに倒れた母が脳裏を過る。それが静と重なり、考えたくもない心象に首を振ることで意識から振り払おうとする。
考えたくないが、もしこの世界に静が存在しないのであれば、廉久はこの世界に未練はないと自己完結する。それどころか、そんな世界など無くてもよいとすら思ってしまうくらいだ。
そのような世界は、己が居場所さえ確立することができないであろう危うい世界のはずだ。生きる価値も見出せず、路頭に迷い野垂れ死にするか、ただ中身のない歯車となり目の前の職を淡々と熟し毎日を消費し続け、いずれ欠陥品となることは想像に難くない。
気が付くと廉久はゲーム実況をしているモニターのほうに向き直っていた。悲観的な一人思いに当てられ束の間、我を失っていたようだ。
無理もない、この先は暗い未来しか想像できないのだから。
「また、昔のこと思い出してたの?」
後ろから温かい言葉と首元に温もりが伝わってくる。
独り沈んでいく廉久の感情を汲みとった静は腕を首元に絡ませ、目を閉じて、包むように抱きしめて囁いた。
「静、俺は――」
「いいから」
廉久の言おうとしていることが分かっているのか、静は声を被せて言わせてくれなかった。
(俺はお前を幸せにできるだろうか……)
無職となり、自由な時間の増えた廉久は日々こうして悲観的な考え事が増えていることを自覚し、そんな自分に嫌悪感を募らせていた。
社会不適合者。
結局は何度考え直しても、そこへ辿り着く。
会社を辞めたことも、学校で浮いていたのも、すべてはその一言で解き明かせる。
そんな社会不適合者を、母を死に追い詰め、静と出会わせ、会社を辞めさせた運命はこの先何を望むのか。どこかで俺のことを見ているとでも言うのか。
惨めに足下を向き、そこに在るはずも無いレールを探した。首元に確かに在る運命を手掛かりに。
それから少しの時間が過ぎ、二人は寝床で横になっていた。隣の静は既に眠っていて、廉久も意識は朦朧としている。暗い空間に白い天井、それが覚えている最後の光景だった。