輝く髪の青年
彼は手の平を見た。瘡蓋が出来ている。ギュッと爪を立てて強く手を握り込む。
この傷を治してはいけない。この傷は罪の証、唯一の彼女との繋がり。この傷は痛み続けなければならない。
彼には孤独な年上の従兄がいた。城に来ても従兄はいつも孤独だった。城に来るほとんどの者が従兄を蔑み無視していた。それでも背筋を伸ばし、どんな態度を取られても表情を崩さず堂々としている姿に憧れていた。
そんな黒い髪と瞳の従兄が表情を柔らかくする時がある。″妹″の話題が出た時だ。彼には兄も姉もいなければ、弟と妹もいない。憧れの従兄を優しくする″妹″に会ってみたかった。彼がお願いしても従兄は″妹″を城に連れてくることはなかった。
彼の母親は従兄と仲良くするのを善とはしなかった。何度も何度もお願いしてやっと従兄の家に行くことを許してもらった。
そして会えた従兄の″妹″は、真っ赤な髪を持つ可愛らしい少女だった。何故か炎のようだと思った。その赤い髪のせいだけではない。少女から暗闇を照らす松明の灯りのような光を、体を温めてくれる暖炉の火のような温もりを感じた。
彼は時間を作っては従兄の家に遊びに行った。同じ年の少女と双子の弟とはすぐ仲良くなった。従兄は渋々という態度を崩さなかったが、いつも彼らの遊びに付き合ってくれた。
赤と黒がクルクルと回る。彼はそれを見て胸が締め付けられた。いつも一緒にいる赤と黒。その中に入りたかった、その中に入ることが出来た。いつしか彼はその赤がいつも隣にいることを望んだ。
クルクルクルクル少女と踊る。繋いだその手を離したくなかった。己以外をその瞳に映して欲しくなかった。曲が終わる直前、自然に少女の前に跪いた。胸が熱い。手に光が集まる。
彼は少女に自らが生み出した花を差し出していた。
少女がその花に手を伸ばして触れた時を彼は忘れられない。その身を包んだ歓喜は何事にも代えられないものだったのだから。
彼より少女の方が背が高くて悔しい時もあった。思ったことをすぐ行動に出してしまう少女にハラハラすることもあった。
優秀な従兄の妹である少女は努力家だった。彼のために努力する姿は彼に力を与え重圧に負けそうな彼をいつも支えていた。
彼も少女に負けないように自分を磨いた。
魔力では彼女に勝てなかった。だから、剣の腕を磨いた。己の力で彼女を守れるように鍛練を続け、扱いが難しい魔法剣を使えるようになった。
彼が少年から青年へ成長するように、少女も赤い宝玉と呼ばれるほどの美しい女性になった。
彼女の側には彼がいるのが当たり前だった。彼の隣に立つのが彼女であるのが当然のように。
それがそうでなくなったのは何時からなのか?
彼はある色を見つけた。いずれは彼と彼女の間に必ず授かるはずの色。彼が早く会いたいと憧れた色がそこにあった。
彼はその色に強く惹かれた。その色は彼女への思いの色であり、未来の色でもある。
その色を持つ者はあまりにも幼くて無知だった。庇護欲があったのは確かだった。彼女に繋がる色だからこそ守りたかった。
彼女の姿が隣から消えた。いや、彼が彼女の隣に立たなくなった。
彼はいつも何か足りないと感じるようになった。何か違うとも。強い危機感を感じるが動けない。何が足りないのか、何が違うのかさえ曖昧になっていく。
けれどもその色を見ると安心する。その色がある限り未来は変わらないのだと感じていた。
暗闇を照らす灯りが欲しかった。体を温める暖炉の炎のような暖かさを求めた。
照明で明るく照らされた部屋、快適な温度で調整された室内、暗いはずがないのに寒いはずがないのに、何も見えないほど暗く体の芯から凍えそうなほど寒かった。
『あの人のことは考えないでください。
あの人の名前を…、愛称を呼ばないでください。
あの人の側に行かないでください』
赤い髪の女性が哀しそうに彼を見る。その視線に彼は胸が苦しくなる。強く抱き締めてその憂いを無くしてあげたかった。だが、動けなかった。側に行って抱き締め慰めたいのに足は動かない。だから、足早に彼は赤い髪の女性の前から去る。辛くて堪らないから。けれどその場を離れるのも身を切るように辛かった。
頭を下げたまま赤い髪の女性は顔を上げない。顔が見たいのに、その瞳に己だけを映して欲しいのに、彼の口は思いと違うことを紡ぐ。
「ハラルド王太子殿下」
剣を胸に突き立てられたようだった。赤い髪の女性がそう彼を呼んだ時。赤い髪の女性にそう呼ばせた己に失望する。
赤い髪の女性が言うことは正しい。それが分かっているのに彼の口から出るのは違う言葉。
必死な赤い髪の女性の言葉に彼が応えようとした時…。
「ハラルド様」
甘い声に、現れたその色に浮かんだ応えが霧散する。その色は二人の未来の色。悲しみに染めてはいけない色。
「もうハラルドとは…」
小さく頭振る姿に彼の心が凍りつく。引き留めたいのに名前を呼べない。追いかけたいのに腕に縋りつくその色を振り払うことが出来ない。辛い、痛い、悲しい、苦しい。心が悲鳴を上げているのに彼は動けないでいた。
彼は赤い髪の女性の姿を見るのが辛かった。そんな表情をさせている己が許せず苛立ちが募る。それはこんな想いをさせる赤い髪の女性に向けられる。その瞳に傷ついた光を見つけまた苛立つ。
彼は赤い髪の女性の瞳に映る己の姿に失望する。こんな態度を取りたくないと思っても変えることが出来ない。
彼の目の前で赤い髪の女性が泣いていた。いや、彼が泣かしてしまった。その色を持つ者に贈る花を考えていただけなのに。今の季節ならどんな花が買うことが出来るか。
嗚咽を殺し身を小さくして泣く様に胸が締め付けられる。
彼はゆっくりと手を伸ばす。
抱き締めたい、慰めたい。泣かしたことを謝りたい。不安を取り除きたい。
「ハラルド様」
彼の伸ばした手が止まった。
何故、手を止めたのかが分からない。
何故、手を伸ばしたのかが分からない。
「ハラルド様」
彼の体が扉の方に向かう。
駄目だ、行っては。赤い髪の女性の方が大切なのに。このまま泣かせたままにしてはいけないのに。
扉の向こうにその色を持つ者を目にしたら、彼は何が駄目だったのか分からなくなった。
山荘でのパーティーは楽しいものだった。
その色を持つ者は、彼が集めた美しい(手に入りにくい)花をとても喜んでくれた。
幸せな時間のはずなのに何故か彼の心は満たされない。
胸騒ぎがする。こんな所にいてはいけない。早く行かなければ。待っている、大切な人が。すぐそばに行きたい。だから、早く早く…。
「ハラルド様」
その声を聞くと彼は何もかも分からなくなる。何を焦っていたのか。何故満たされないのか。何も分からない。
一人になると彼の焦りは強くなる。不安が募る。
困っていないだろうか? 辛くはないだろうか? 怪我をしていないだろうか? 眠れているだろうか?
泣いていないだろうか?
会いたい、すぐに会って確かめたい。泣いてないかどうか。
誰? 誰に会いたい? 誰に会うというのだ?
分からない。浮かんではすぐに消えてしまう赤い影。馬車の中で小さくなって泣く姿。
彼女の名前は…、考えてはいけない。
日にちが経つにつれて、彼の喪失感が強くなっていく。
マダラカ公領に向かった使節団が帰ってくると聞いて彼はほっとした。無事だったと。
賊が出るとその色を持つ者が言った。騎士に成り済ましていると。
やっと帰ってきた使節団の邪魔をするのは許せない。
全く手応えのない賊だった。彼らを見てすぐに逃げようとする見せかけだけの賊。捕らえて警兵に引き渡せばよいだけの。だが、彼は許せなかった。使節団が使う道に出没したことが。この道は安全でなければいけない、…が通るのだから。
賊には上級の魔法使いがいるようで賊に致命傷を与えたのに死ぬ者がいない。防御と治癒の魔法をかけ続けているようだった。
彼は賊の魔法使いを探した。その姿を見つけた時、怒りで真っ白になった。
許さない。その姿に化けたことは死を以てしても償いきれない。…は大切に守られて、彼が大切に守りたい者だ。こんな血生臭い場所にいるはずがない。
彼は手に持つ魔法剣の封印を解いた。これでこの剣は、魔力を吸い取る魔剣になる。切られた者は魔力を吸い取られ、治癒魔法も効かず、魔力切れを起こして死んでしまう。
魔法使いだけを狙い、剣を繰り出す。偽者の必死の制止の声が彼の怒りを更に煽る。
…と同じ声だと、許せない!
傷ついた賊が魔法使いを守ろうと飛び出してくる。
彼はゆっくり剣を振り下ろした。魔法使いがどう動くか分かっていた。肉を切る感触。もっと力を入れて深手にすることが出来たのに、彼にはそれが出来なかった。
その魔法使いの魔力が強いのか魔剣に切られても本当の姿に戻らなかった。それが忌ま忌ましい。
魔法使いの首に剣を突き付け、止めをさすつもりだった。
「ハ…ラルド…様、お…やめ…くだ……」
哀しみの籠った瞳で見つめられ、…の哀しそうな顔が頭に浮かんだ。
彼は剣を引いた。ここで止めをささなくても魔力を失い何れ死ぬ。…と同じ顔をした死体を見るのが嫌だった。残りの賊たちも地に倒れ、立っている者もいない。警兵が来て連れて行くだろう。
彼らは学園に戻り、いつも通り暮らした。
『怖いからあの人の物を捨てて。
あの人を思い出すような物は』
その色を持つ者が望んだから、…に繋がる物は全て捨てた。彼は部屋も心も空っぽになったような気がした。けれど、学園を修業し少ししたら、物ではなく…が側にいるはずだから。
彼はふとした瞬間、剣を手にした右手を見てしまう。魔法使いを切った感触。耳に残る悲痛な声。哀しみに染まった瞳。
思い出す度に何かを失ってしまうような感覚に襲われる。あまりにも…に似すぎていたためなのか。相手は罪人だとその色を持つ者が言っていたから、何も失っていないはずなのに…。
赤い髪の青年の誕生日が来た。彼は離宮で盛大なパーティーを開いた。大切な友であり側近である青年を祝うのは当たり前のことだった。
日付けが変わろうとする頃、彼は酷い焦燥感に襲われた。
何かとても大切なことを忘れている。それは明日になってしまってはいけない。今日中に急いで。間に合わないことは許せない。赤い髪の青年も彼を探しているようだった。彼は赤い髪の青年に託した。その色を持つ者が、…に届くように。
「ハラルド様、また傷を開いたのですか?」
侍女が近づき、血が滴る手を開く。
「″これ″しか彼女に繋がるものがない」
自分を取り戻すための傷、彼女にしたことを思い出すための傷。
「ウイン様と…」
「ミ、クラチカ伯爵令嬢が嫌がったから口に出来ないんだ」
彼はグッとまた手を握り込む。
呼びたいのに呼べない、愛しい者の名の愛称を。
いや、それが彼への罰なのかもしれない。
誤字報告ありがとうございますm(__)m
ルビ(ふりがな)に漢字を使わないようにしています。ご報告ありがとうございます。