ミギミミ・パラダイス
カチ、カチ……。
湿気た柿の種を噛みながら、ノートパソコンを前にして黒いマウスを操作していた。部屋の灯りは、ノートパソコンの画面のチカチカする光と、小さな電気スタンドの電球から発せられるぼんやり白い光のみ。ひらひらと揺らぐカーテンの向こうには、暑苦しい夜の闇が広がっていた。
赤いイヤホンを耳につけて、私は夜な夜な冒険をしているのだ。黄色いカゲボウシが、鍾乳洞の洞穴を歩いていく。甲殻類のような的を、ばたばたと倒していく……。
スッテレテーッ。聞いたことのない音だ。ということは、今までにない記録を出したのだろうか。私の黄色いカゲボウシが、平たい画面の中でガッツポーズをして喜んでいる。湿気た柿の種は相変わらず不味い。
イヤホンを外すと、左耳に違和感があった。水が詰まっているような、不快な感覚。そういえば昼間、ミサキのやつにこの辺を打たれた。
あの女、どうしてくれる……と、そんなことを思いながら、私は部屋を出て、洗面の三面鏡の前に立つ。まずい柿の種の味を一掃すべく、歯磨き粉を取って歯ブラシにつけた。その刹那……
なにか、ニュルリ、としたものが、私の背に触れた……ような気がした。右手で肩甲骨のあたりを確かめてみるが、なにもない。
白いキャップを締めて、歯磨き粉をしまうと、私は歯と舌とを磨いた。すうすうするミントの刺激が心地いい。
ニュルリ……。
ちゅぱっ。
ニュルリ……。
もう一度、肩甲骨を確かめるが、なにもない。三面鏡を開いて、目で確かめるべきか……。
私は鏡を見た、その途端、背中ではない、顔のどこかに違和感を感ずるのに気づいた。
……どこだ、どこかが、間違っている……。
それに気づいたとき、私は戦慄した。
「いったい、なんの真似!」
今までより鮮明に、ふつうに音が聞こえた気がした。左耳が正常に聞こえるようになった。……いや、これは左耳ではない。形が……、これは……、右耳じゃないかっ!
急いで顔を洗った。そして、ふたたび鏡を見ることなくタオルで顔を拭って、部屋へ戻ってベッドへ飛び込んだ。
「許さないんだから!」
私は一睡もできないうちに、肩甲骨から引きずられて部屋を出た。吸盤のようなものが私を引っ張り、私は抗うことができなかった。そのまま私は、近所の児童公園の真っ赤に塗られたベンチへと、背中から引きつけられて尻餅をつくような形で座らされた。
べちょり。
顔を上げると、目の前にいくつもの人影があった。やがて、その輪郭が白い明かりの中にはっきりと現れてくる。その中心に立っているのが……
「ミサキ……?」
あの女、不敵な微笑を浮かべながら、私を見下ろしている。……くそ、背中が貼りついていなければ……。
「ふふ……」
私の心を読んだかのように、ミサキは口元を歪めて笑った。そして、急に冷たい目をして、口を引き結んで、隣にいる執事のコスプレのような黒服の男のほうを見て、合図をした。
男は私のほうへ歩んでくると、突然、メガホンのようなものを取り出して私の顔の左へ立ち、大声で叫んだ。
「ミギミミ・パラダイスッ!」
「うがああああああっ!」
目の前が薄橙の物体で埋め尽くされた。……どれも、右耳だ。
「絶対に、許さない」
右耳の波をかき分けて進むと、遠くにミサキの影が見えた。
あの女……!
ミサキは私を一瞥すると、身を翻して去っていった。
すると例の執事男が現れて、私にメガホンを向ける。私は思わず目をつぶった。
「……開けなさい……」
聞こえる声は、さほど大きくない。恐る恐る目を開けると、男のメガホンが数メートルほど先に見えたが、こちらへ向けられたそのメガホンの先は、大きなレンズで塞がれていた。
「……とくと見なさい……」
私はそのレンズを覗いた。すると……、そこには私の顔が映っていたが、やはりおかしい。左耳のあるべきところに、右耳がついている……。
「許さない……」
「……もっとよく見なさい。あなたの罪が浄化される様を、きちんと目に焼きつけるのです……」
ニュルリ……。
なんてことだ。
ニュルリ……。
……私は、気づいてしまった。
左耳のみならず、鼻、目、口……ありとあるパーツが、右耳に置き換わっていることに……。
「ミギミミ・パラダイスッ!」
気づくと、私はベッドの上へと戻っていた。
カーテンの外に朝の日差しがあった。
洗面の前に立ったが、私の顔に変わったところはなかった。ふつうの顔に戻っていた。
「ミギミミ・パラダイスッ!」
……いや、なんだよそれ。
ミサキに会った。
何事もなかったかのように、彼女はふつうに話しかけてくる。……この女……。
ミサキは、新しい手鏡を買ったと言った。ピンク色の折りたたみ式の手鏡だ。
「ふふ……」
「カボチャのポタージュでございます」
店の制服を着た店員が、前菜を持ってきた。彼が一礼をして席を離れると……。
「鏡、見る?」
そう言ったミサキ。店内には、ハッペルベルの『カノン』が流れている。
この女……、いい笑顔をしてやがる……。