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 次の日、中尉は家に帰ってこなかった。

 日中も顔を見せなかったし、夜になっても一度もアパートに戻ってこなかった。ベッドに入って、ウトウトとまどろんでは目が覚める、ということを繰り返していたため、もしかしたら気づかないうちに帰ってまた出て行ったのかもと思ったが、そういうことでもないようだった。

 テーブルの上に並べておいた料理の皿は、どれ一つとして手のつけられた形跡がない。着替えをした様子もなかった。居間の中は、私が昨夜寝室に行く前から、まったく何も動いていなければ、変化もない。

 いつも私が起きてから片づけていた、脱ぎ散らかされたシャツや、流しの中に乱雑に積み重ねられた皿も、どこにも見当たらない。洗面所も浴室も、昨日綺麗にしたままの状態を保っている。


 もともと殺風景な部屋が、余計にがらんとして寂しげに見えた。


 私はそれから一日を、忙しく働いて過ごした。

 すでに綺麗になっている棚や食糧庫を整理して、部屋中にモップをかけ、必要もないのにどこもかしこも意地になったように掃除をした。

 そうやって身体を動かし続けていないと、嫌な考えばかりが頭に浮かんできて落ち着かなかった。

 窓から外を見下ろすと、以前と同一人物かどうかは判らないが、胡散臭いことには変わりない男が、いつもと同じように建物の外壁に張り付くようにして立っている。

 あの人はいるのに。

 いっそ、彼をとっ捕まえて、中尉はどうしたのかと胸倉を掴んで問い詰めてやりたかったが、諦めた。そんなことをしたって何の意味もないと判るくらいの理性は残っている。

 どちらにしろ、今日はどこにも出て行くつもりはないのだから、外に誰がいようと別に構わない。私が買い物に行っている間に、中尉が帰ってくるかもしれないと思ったら、到底そんな気にはなれなかった。

 床や壁が擦り切れるのではないかと思うくらい容赦なく家じゅうを磨き終えてから、力任せにパン種をこね、ケーキを焼き、スープを作り、チキンの中にぎゅうぎゅう野菜を詰め込んで、中尉が三人いても食べきれないくらいの量の食事を用意した。

 それらの準備が整い、テーブルに並べ終えても、まだ中尉は戻らない。窓の外は、もう陽が落ちて、紫がかった夕闇が空を覆っていこうとしている。

 私はソファに座って、まんじりともせずに、壁に掛かった時計とじっと睨めっこを続けていた。

 これでは、仕事で帰宅の遅い夫の帰りを苛々しながら待つ妻そのものだ、という思いが頭の片隅を過ぎったが、むしろ本当にそうだったならどんなに気が楽だろうと思った。不安と焦燥が、時計の針が進むたび嵩を増して膨らんでいくのは、身を切り刻まれるような苦痛でしかなかった。

 この部屋には、ラジオもなければ、新聞も届かない。かといって、外に見張りがいる以上、ここを出て大っぴらに人に聞いて廻るわけにもいかない。電話なんて論外だ。

 私には、情報を得るすべがなかった。


 ……外では、一体何が起きているのか。


 息を潜めてじっと気配を窺っていても、少なくともこの近辺の様子は、いつもとなんら変わりはなかった。通りをゆったり歩く人たちの顔つきは穏やかで、慌てたり驚いたりすることも、浮足立つようなところもない。

 夜の十二時過ぎまでそうやって待っていたが、こんな風に気を張っているのがかえってよくないのかもと思い立ち、私は青い顔のまま、ふらりとソファから立ち上がった。

 普段と同じようにしていれば、普段通りの日常が戻ってくるような気がした。正直、私の頭は疲れ切っていて、ほとんど正常に動いていなかったせいもある。

 軽くシャワーを浴びて、寝室に向かった。寝間着に着替え、ベッドの中へと潜り込んだが、眠りはすんなりとは訪れてくれなかった。昼間の労働で肉体はくたくたになっているはずなのに、目ばかりが冴えてしまって、何度もごろごろと輾転反側を繰り返す。そうしながらも、耳を澄まして、少しでも物音が聞こえないか、神経を尖らせた。

 一時間、二時間と経過して、意識が朦朧としはじめた頃になって。


 私の耳は、ドアの錠が鳴る音を捉えた。



          ***



 中尉は軍服姿のまま、部屋の明かりも点けないで、出窓のところに腰かけていた。

 皓々とした白い月明かりが、彼の横顔の線を浮かび上がらせている。窓の外に目を向けていたが、その瞳に映っているのはおそらく、真ん丸になった美しい月でも、その光に照らされる建物の姿でもないのだろう。


 闇の中に溶けてしまいそうなほど静かに座る中尉の表情には、輝く月光を浴びてもなお隠せない、暗い影が色濃く宿っていた。


「……おかえりなさい、中尉」

 囁くような声で言って部屋に入っていった私を見て、中尉は驚いたように少し片眉を上げた。

「まだ起きていたのか。……眠れなかったのか?」

「ええ」

 私は答えながら、そっとした足取りで、中尉の近くにまで寄っていった。今のこの場では、大きな音も、大きな声も、相応しくないような気がした。何か大事なものを、壊してしまいそうだ。

 寝間着の上にガウンを羽織っただけの私に、

「若い女性が、そんな恰好で男の前に出てくるのは感心しないな」

 と、顔をしかめた中尉が窘めるような口調で言う。ズボラなくせに生真面目な、この人らしい台詞だと思った。

 でも中尉は、私が出窓の空いた部分に座るのを、制止しようとはしなかった。



 しんとした静寂が流れた。

 中尉は再び窓の外に視線を向け、黙りこくった。

 私も同じく、暗闇に包まれた外の世界に顔を向けた。

 通りに人影はなく、ぽつりと立つ街灯が、誰もいない道と建物とをぼうっと照らし出している。

 家の中では、みんなが今日と変わらない明日の存在を疑いもせずに、平和な夢を見ながら眠りに就いているのだろうか。



「──すまなかった」

 しばらくして、唐突に中尉がぽつんと言葉を出した。

「昨日、今日と、君に付き合ってやれなくて。君のことだ、二日も続けてあの場所を放ったらかしにして、さぞ心配で心配でカリカリしていたんじゃないか?」

 ほんのちょっとだけ、いつもの皮肉っぽい中尉になって、唇の端を上げた。ほっとするよりは、少し腹が立った。その言い方や台詞の中身ではなく、この期に及んでもまだそういう態度で自分に向かってくるものを弾き返そうとする、彼の頑固さに。

「ずっと、心配していました」

 私の返事に、中尉はやれやれというように肩を竦めた。

「それは申し訳なかった。だが──」

「あなたのことが、心配でした」

 そう続けると、中尉は言葉に詰まった。わずかに見開いた目が、こちらを向いている。私はその視線を正面から受け止めた。


「中尉の身に何か起きたのではないかと、どこかで危ない目に遭っているのではないかと、ずっと不安で心配で、生きた心地もしませんでした。いけませんか?」


 まっすぐ彼を見返し、挑むように言い放つ。

 中尉は呆気にとられたように口を開け、私を見つめたまま、固まっていた。

 何かを言いかけてから止め、もごもごと口の中で何かを呟いてから、気まずそうに目を逸らす。「なんでそんなに威張っているんだ……」とか言ったようだったが、怒っているわけではないらしかった。

 中尉の耳がまた赤くなっている。

「君の立場で、自分のことはともかく、俺のことまで心配する必要はないだろう」

「必要とか、そんな問題じゃありません。中尉は、私が、ひと月近くも一緒に暮らしてきた相手をただの番犬のようにしか思わない人間だとお考えですか。でしたらそれは大きな間違いです」

「いや……」

「大体、中尉は放っておいたら食事だって満足にしないじゃありませんか。自分のことに構わなすぎなんです。ずっと睡眠不足が続いていたのに、自分の身体を労わるとか、休めるとか、ちっともしようとしないで。人間は植物と違って、水気をなくしたら萎れるどころでは済まないのですよ、わかってますか。こうしている間にも、中尉が空腹で目を廻しているんじゃないか、過労で倒れているんじゃないかと、私がどれだけ気を揉んだと……」

「わかったわかった」

 怒涛のように私の口から出る文句を押し留めるように、中尉は慌てて広げた両手の平を見せた。


「まあ……うん、すまなかった」

 顎の先を指でこりこり掻きながら、視線をあらぬ方角へ向けて、ぼそぼそとした声音で謝る。


「長いこと一人でいるのが当たり前だったものだから、俺は心配されるということに慣れていないんだ」

 どうにもくすぐったいものだな、と、中尉は独り言のように言った。

 それから私のほうを向き、手を差し出す。

 伸ばされた大きな手が、私の手を掬いあげるように取った。

 互いの指先だけが絡まる程度の、どこか遠慮がちな接触だったけれど、はじめて、中尉の温もりを身近に感じたような気がした。

 そしてこの時、中尉はもうひとつ、はじめてのことをした。


「──シェリル」

 と、名前を口にして私に呼びかけたのだ。


 射し入る月の光に照らし出される彼の顔からは、初対面の時にあった冷たい仮面が綺麗に剥ぎ取られていた。

 こちらに向けられる眼差しには、真摯な色が浮かんでいる。ノア・レイズという人間の本来の資質であろう一途さや強靭さが、そこにはあった。

 闇の魔力か、それとも他の理由でか、中尉は今まで用心深く彼の中の奥底に押し込めて隠していたものを、今この時、取り出そうとしているのだと、私は感じた。

「……君は、子供の頃、大佐に戦場で拾われたと言ったね?」

 確認するように問われ、私は「ええ」と吐息の漏れるような声で答えた。

「大佐の家では、優しい女性が君を迎えてくれた。彼らは君を慈しんで育て、君は両親を愛した。ここはまるで美しい夢のような世界だと、そう思った」

「ええ」

 一瞬、中尉の瞳が怪しく底光りしたように見えて、ぞくりとした。


「──その時に、不公平なのは、この世の中のほうだと思わなかったか? 一方では何の罪もなく戦いに巻き込まれ、命を落とした民が大勢いるというのに、一方では戦争のことなんて知ったこっちゃないと、豊かな環境で人生を楽しんでいる民も数えきれないほどいる。瓦礫の中、泥水をすすって生き延びている民もいれば、服だ帽子だと浮かれて買い物をし、贅沢な食事を腹いっぱい貪っている民もいる。同じ国に生まれたというのに、その場所が違っただけで、どうしてこうも生き方までが違う? あちらとこちらとで、なぜこうも差がつく? それを運という一言だけで片づける、この世界の仕組みはなんだ?……君は、のんびり庭の花に水をやって笑っていられる人間に対して、憎しみは湧かなかったのか? 問いただしてやりたい気持ちに駆られなかったか? おまえらが今笑っていられるために、どれだけの血が流れ、何百人の犠牲が必要だったか、本気で考えたことがあるのかと。戦場で人が死んでいくよりも、おまえにとっては花が枯れることのほうが、そんなにも重要なのかと」


「…………」

 私は慄然として、淀みなく言葉を紡ぐ中尉の口元に目をやっていた。

 彼の唇は歪んで上がっている。笑いのような形になっているけれど、それはまったく笑いとは種類の違うものだ。

 ……そこにはただ、悲哀だけがある。

 私の舌は、凍ったように動かなかった。


「……俺は思ったね。心の底から、思った。俺のような戦災孤児(・・・・・・・・・)を腐るほど作り出しておいて、平和な場所から眺めるだけで何もしようとはせず、勝ったの負けたの戦争で何を得ただのと勝手なことばかりをほざき、笑っているやつらが、憎くてたまらなかった」



          ***



 一旦言葉を切って、中尉はひとつ息をついた。

 顔を下に向け、お腹の底から絞り出すような、長くて深い息を吐く。

 それをすべて外に出してしまうと、目を上げた中尉の表情からは、さっきまであった悲しみが消えていた。

「……ま、でも、そう思ったのは、子供の頃のことさ」

 いつもと同じ声でそう言って、ふっと笑う。今度のは、ちゃんと微笑になっていた。

「ずいぶん神や世界や人間ってやつを恨んだり憎んだりしたが、そんなものをいつまでも執念深く維持できるほど、俺は気の長いほうじゃない。というより正直言って、早いところこの惨めな境遇から抜け出そうと足掻くのに必死で、余計なことを考える暇もなかった」

 中尉は軽い口調で流したが、私は目を伏せずにはいられなかった。

 彼の今までの人生は、とても言葉などで言い表せられるほど簡単でもなければ、楽なものでもなかっただろう。



 寝室にあった、血が染みついた煤だらけの人形。

 炎に巻かれた過去の記憶が、今も悪夢となって中尉を苦しめている。

 私が美しい夢の中にいた間、この人は、ずっと。



「これまでの過程で、明るいことや楽しいことも、なかったわけじゃない。なんとか這い上がっていくうちに、未来への展望も持てるようになった。……しかし、子供の頃に頭と身体に植えつけられた絶望が、そして身の焦げるほどの怒りや憤りが、すっかり消えてなくなったわけでもない。それで俺は、軍人になろうと決意した」


 かつて、自分からすべてを奪っていったもの。

 今度は、自分の手でそれを取り戻すため、中尉は軍人への道を選んだのだという。


「この世界には、強者と弱者が絶対的に存在する。強いものが上に立ち、弱いものは虐げられる。弱ければ、誰かに踏みにじられるだけだ。力がなければ、やり返せない。だったら、俺自身が強い側に廻らなきゃいけないと思った」

 そこで中尉は口を噤み、触れていた私の指を離した。

 外した手で、今度はするりと私の頬を滑らせるように撫でる。

 私の目からは、いつの間にか、涙の粒が零れ落ちていた。

「──ごめんなさい、中尉」

「シェリル」

「ごめんなさい」

 目を閉じると、ぽたぽたと涙が滴った。私が泣いていいところではないと思うのに、止められない。

 どうしようもなく、胸が痛かった。

「──……」

 中尉が、ふー、と大きなため息をついた。

「俺がこんな面白くもない思い出話をしたのは、何のためだと思ってるんだ? あの庭で君の話を聞いた時から、言ってやりたくてたまらないことがあったからだよ」

「……なんでしょう」

 目を開けて中尉の顔を見る。

 たとえどんな内容のことであろうと、責めて詰る言葉であろうと、私はそれを聞かなければならないと思った。

 中尉は私の頬に手を添えながら、じっと私の目を見返した。



君のせいじゃない(・・・・・・・・)



 ゆっくりと、言い聞かせるような静かな声で、中尉は言った。

「君もまた、あの戦争の被害者だ。君が罪の意識を覚えるようなことは、何ひとつない。戦争も、そこで起きた悲劇も、犠牲になった人々の人生も、君が責任を負わなきゃいけないことは、まったくない。自分が幸福であることに、引け目を感じる必要はないんだ。何もかもを背負おうなんて、無茶なことをするな。……幸せなら、笑っていればいい。それが周囲も幸せにする、最良の道だ。あの無意味な戦争で、失われたものばかりじゃなく、少しでも何か生まれたものがあったというなら、それだけで十分、あの頃の俺は救われる。そのことを、伝えたかった」

 私は自分の口に手を当てた。指も、そこから出る声も、情けなく震えていた。

「……でも」

「君も知っていると思うが、俺は結構ひねくれた人間で、歪んだところも大いにある」

 そう言って、中尉は目を細めた。


「──だけど、君と一緒にいると、その歪みが少しずつ、まっすぐになっていくような気がした」


 私の目から、さらに涙が出た。

「君にはそれだけの力がある。何も与えられないなんて、そんなことがあるはずがないんだ」

「……中尉」

 上体を傾けて、中尉の胸に自分の頭を置いて顔を埋めた。大きな手が、ぎこちないながら、背中を軽く叩いてくれる。

 伝わってくる熱と、優しいその動きに、心から安心した。

 「これはキツいな…」とぶつぶつ呟くような声が、次第に遠くなっていく。

 私はそのまま、眠ってしまったらしい。



          ***



 目覚めたら朝になっていて、私は焦った。

 どうやらあの後、中尉がベッドまで運んでくれたようだ。毛布をはねのけ、急いでベッドから飛び出て居間に行くと、そこにはちゃんと中尉その人がいて、ほっとした。

「おはよう」

 彼はいつもの顔、いつもの声で挨拶した。

 明るい朝の光が部屋の中を満たし、普通に立っているその姿を見ると、昨夜のことがすべて夢だったような気がしてくる。

「お、おは」

 どもりながら挨拶を返そうとして、自分が未だに寝間着のままであることに気づいた。闇が隠してくれる夜中ならいざ知らず、太陽が昇りきったこの時間、こんな何もかもが陽光に晒された場所で、堂々としていられるような格好ではない。

 私は赤くなって短い悲鳴を上げ、くるっと勢いよく反転し、バタバタと寝室へ取って返した。

 後ろで、中尉の笑い声が聞こえた。




 洋服に着替えて一息つき、また居間に戻ると、

「俺はこれから出かける」

 と中尉に言われ、私は眉を寄せた。

「まあ……だって、ほとんど寝ていないのでしょう?」

「仮眠は取った」

「中尉──」

 いい加減にしないと、本当に倒れてしまいますよ、と言いかけた私の言葉を止めるように片手を挙げ、中尉がすぐ前に立つ。

「シェリル、よく聞いてくれ」

 私は口を閉じた。中尉の顔つきを見たら、言葉が喉の手前で止まり、それ以上何も言えなくなった。

 彼の目は真剣そのもので、ざわりとした不安が胸に込み上げる。


「いいか、今日は絶対に、外に出ないように」


 厳しい声と口調でそう言われ、余計に不安が大きくなった。

「どうして……」

 私のその問いには答えず、「頼むから、約束してくれ」と中尉が念を押した。

「誰かが来ても、ドアを開けるな。電話が鳴っても無視をしろ。もしも強引に何者かがこの部屋に押し入ってくるようなら、寝室の窓から外に逃げろ。ベッドのマット下に、縄梯子が隠してある」

 てきぱきと指示する中尉の口調に、迷いはなかった。

「そして外に出たら、すぐに大佐の家に戻るんだ。誰に何を聞かれても、俺とはもう無関係だと答えろ」

 無関係、と私は血の気の失せた顔で、呟いた。

 では、今日が父の言っていた「その日」なのか。


 ──いいかね、何か異変があったら、その時はすぐに逃げなさい。私のことは案じなくともよい。身ひとつでもいいから、中尉の許を離れるんだよ。でなければ、おまえも事に巻き込まれる恐れがある。

 父の声が、脳裏に蘇る。


 その時になったら、自分はどうするのか。

 ずっと胸の中にあったその疑問に、今やはっきりとした答えが出ていることに、私は気づいた。


「──私、ここで中尉が帰るのを待っています」


 両手を胸の上で組み合わせ、私がそう答えると、中尉は眉を上げた。

「俺の言ったことが聞こえなかったのか?」

「この家で待ってます。ですから、ちゃんと帰ってきてください」

 強い調子で繰り返し、唇を引き結ぶ。

 中尉は続けて何か言おうとしたようだが、私のその顔を見て、諦めたように息を吐いた。

「まったく君は頑固だな」

「ウォーレン大佐の娘ですから」

「違いない」

 そう言って、軽く噴き出した。

 軍帽のつばを掴んで、きゅっと目深に被り直す。

「──君は毎回、俺が出て行くたびに見送りや出迎えの言葉を出してくれたが、それに一度も返したことはなかったな」

「そうですね」

「その言葉が、嫌いなんだ。……いや、本当のことを言うと、怖いんだ。そんなもの、いくら口にしたって当てにならないと、よく知ってるからな」


 いってきます、と笑顔で出て行った背中が、二度と戻らなかったのを知っている。

 ただいま、と戻った場所に、誰もいない空虚な孤独だけがあることを知っている。


「でも」

 中尉が微笑して、私の頭にぽんと手を置いた。

「今日は言っておこう。……いってきます。また君の旨い料理が食べられるのを、楽しみにしている」

 そう言って顔を寄せ、私の額にちょんと唇を当てる。

「いってらっしゃい、中尉」

 私はなんとか頑張って笑顔を浮かべ、彼を見送った。




          ***



 一報は、その日の夕方近くになって、ようやく国民の許へ届いた。

 ──本日午前、国軍本部にて、クーデター勃発。





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