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二十年以上前に、その戦争は始まった。
もともとは、隣国のほうから仕掛けられたものであったと聞く。あちら側からの侵攻を防ぎ食い止めるため、国は大量の兵と武器兵器を投入し、国境を挟んで戦った。
兵に限らず、一般人からも、多数の死者・負傷者を出しながら、二国は激しい攻防戦を繰り広げた。けれど、そもそも似たような国力、そして双方の準備不足や不備もあり、どちらも互いに決定打を出すことが出来ず、戦況は一進一退を繰り返した。
戦争はいたずらに長引いた。
そのうち、二国は共に、軍事的にも経済的にも疲弊しはじめ、講和に向けての話し合いが進められるようになった。
その時、軍内の意見は真っ二つに分かれて、大いに揉めたそうだ。勝利をもぎ取るまで続けるべきだというものと、ここは一旦事を収めたほうが得策だというものと。
しかし結局、隣国と条約が締結されて、戦争は一応の終結を迎えた。
開戦から、二年後のことだ。
「……正直、その時のことを、そんなにはっきりと覚えているわけではないんです」
なにしろ、その当時、私は四歳だか五歳だった。大変申し訳ないことに、実の両親の顔すら、ぼんやりとしか記憶にない。まったくピントの合っていない写真のように、ボヤけた肖像が頭にこびりついているだけである。
私が住んでいたのは、国境から少し離れた小さな街だった。
紛争地帯に指定されてはいなかったけれど、いつそうなるかは誰にも判らないという、ギリギリの場所に位置していた。
毎日毎日、どこかで爆撃の音が聞こえて、硝煙の臭いが漂ってくる。住人たちはいつも怯えたように身を縮め、今日はどこで何人死んだそうだよと不安そうに噂し合っていた。一家揃って別の地に移住するため、住み慣れた家を引き払う人たちも少なくなかった。
私たち家族も、近いうちにそこを離れる予定になっていた。母が生まれたばかりの妹を背負って、荷物をまとめていた姿を薄っすらと覚えている。
けれど私たちが街を出ていこうとした直前に、爆弾の雨が降り注いだ。
「どうして自分が助かったのかも、よくわからないんです。もしかしたら、本当の父か母が、必死で守ってくれたのかもしれません。気づいた時には私は一人で泣いていて……気づいたら、大きな逞しい腕に抱きかかえられ、どこかに運ばれていました」
大丈夫、おまえは決して死なせないから、とその腕の持ち主は言った。
私の記憶は線ではなく、点でしか残っていない。ひとつの記憶から、次の記憶までの間が、すっぽりと抜け落ちている。それからしばらくどうしていたか自分でも判らないのだが、戦争が終わり、私は新しい父に連れられ、この家にやって来た。
線の細い、怒っていても笑っているように見えてしまう優しい母は、真っ黒に汚れたみなしごを、温かく迎え入れ、抱きしめてくれた。子供が出来なかった自分たち夫婦に、神が授けてくださったのだと言って、喜んだ。
「──母はもともと、何に対しても愛情を抱いてしまうような人だったんです。私のことも、それは大事にして、手をかけて育ててくれました。……彼女が愛するこの庭と同じように」
いつも欠かさず外に出て、愛おしそうに花や木の世話をする母。
それまでの私にとって、世界というものは灰色と赤のみで成り立っていた。乾いた土、煙の臭い、くすんだ空、崩れた瓦礫、死体の肌の色──そして流れる血の色。
その私の目に、この庭はまるで別世界のように映った。
美しく鮮やかな色を背にして、母がこちらを振り向き、笑う。
「シェリル、今日はどんなケーキを焼きましょうか?」
それを見るたび、その声を聞くたび、いつも心が震えるような気持ちになった。
切なくて、苦しくて、胸が締め付けられるようだった。嬉しくて、愛しくて、自分でもよく判らない強い感情に襲われて、呼吸をするのも忘れてしまいそうだった。何か大きなものが身の裡に膨れ上がってきて、その場にしゃがみ込むのをこらえるのでやっとだった。
灼けつくような痛み。狂おしいまでの憧憬。大声で泣いてしまいそうなほどの、安堵。
秩序と平穏、慈愛と笑顔、明日と未来。
自分を守ってくれる、誰かの手。
私がなくしたもののすべてが、ここにはあった。
戦場に取り残された子供の、美しい夢が具現化した場所。
***
「だから、この庭がダメになってしまうと、私のその夢まで壊れるような、今ここにある現実まで崩れて失われてしまいそうな、そんな強迫観念に捉われて、居ても立ってもいられない気分になってしまうんです。……馬鹿なことを、と思われるでしょうけど」
恥じ入るように少し笑うと、中尉は「……いや」と曖昧な返事をして、私から目を逸らした。
固い表情のまま、視線を何もない中空へと向ける。
「結局、私はあの頃のちっぽけな子供のまま、何も変わっていないのかもしれません」
中尉の向かいに腰を下ろした私は、周りの景色に顔を巡らせて、呟いた。
自分の小さな世界に固執して、大きな腕に縋りつくだけで、何も出来ない。
「私は父と母から、あり余るほどの愛情をもらいました。でも、私から両親に返せるものは何もなかった。受け取る一方で、彼らに与えられるものは、私は何ひとつ持っていなかった。私ばかりが幸福を得ただけで、優しかった母は早逝し、父は出世もままならず、今も私が足枷になって、自由に行動することもできず屈辱に耐えている。──あの戦場で、多くの人が傷つき、死んで、家族とも引き離され悲しい思いをしていたというのに、私一人がたまたま幸せを手に入れ、ぬくぬくと守られ続けた」
他の人たちの分を奪い取っているように、私だけが幸福の独り占めだ。
なんという不公平。
天や神というものがあるのなら、なぜその存在は、こんなことを許容するのか。
「……君は、軍人が嫌いか?」
中尉が低い声でぼそりと訊ねる。
私はそちらに向き直り、ほんのちょっと苦笑した。
「父のことは愛していますが、『軍人』というもので括って言うのなら、そうですね、好きではありません」
正直に答えると、中尉は気分を害する様子もなく、「そうか」と短い言葉を落としただけだった。
急に後ろめたくなって、口を開いて続ける。
「ごめんなさい。そんな風に思ってはいけないんだってこと、自分でもわかっています。軍人さんたちは、自らの身を危険に晒して、国のため、民のために戦ってくれているのですから」
あの戦争で、兵士もたくさん傷つき、亡くなった。
彼らがいなければ、この国は隣国に侵略され、蹂躙され、属国として、国民は惨めでつらい扱いを受けることになっていただろう。
国を存続させるために、軍や軍人はどうしても必要な存在だ。無力な民に代わり、戦いに身を投じる彼らには、感謝しなければならない。それは判っている。
──でも。
自分の国とそこに暮らす人々の生活を守ろうという、気高い意志と誇りを持った軍人もいる。
けれど一方で、自らの力を傲慢に振りかざし、他者を従わせ、支配することに喜びを見出す軍人も、残念ながらたくさんいるのだ。
条約が結ばれたといっても、戦争が残したしこりは大きく、隣国とは未だ緊張状態にある。
軍の中では、準備を万端に整えてから条約を破棄し、今度はこちらから隣国に攻め入るべきだという強硬論も根強いという。
現在の軍のトップ、グランデ国家元帥は、境界は死守すべきだが、隣国とは友好的な関係を築く道を模索していくことを望む、という穏健派だ。その彼に対して、弱腰だ、軍人としての資質に欠けるとの非難も多い。
なぜ、と思わずにいられない。
……なぜ、国と民を守るための軍人が、ようやく平和になったこの国に、わざわざ災禍を起こそうとするのか。
犠牲になる人々のことを考えもしないで。
「父は、私を連れ帰って養育することについて、ずいぶん陰口を叩かれたようです。あれだけ敵を殺しておきながら、罪滅ぼしのように一人の子供だけを救って何になる、と。それは大いなる偽善で、恥ずべき自己満足だと」
多大な戦功を上げたということは、それだけ数多くの敵兵を殺したということでもある。
自分の命と部下の命を守るため。敵を防ぐため。国と民のため。そして、それが上官から下された命令であったため。
どんなに理不尽だと思っても、命令に従い、戦うのが軍人。たとえ街を廃墟に変え、緑の野を荒野に変えても。
けれどそれを罪と呼び、責任を彼らだけに被せるのは酷だとも、思っている。
父は寝ている時、夜中に何度もうなされていた。
矛盾はたくさんある。父にも母にも、私の中にもある。
誰もが、それらの矛盾を抱え、呑み込めないまま、なんとか咀嚼し続けて、生きていくしかない。
戦争が残す傷跡は、なにも目に見えるものだけではないのだ。
「……軍人が嫌いというより、人と人が争うことが嫌いなんです。どうしても、どこかで誰かが泣くことになるから。今の軍で、どんな問題が起きていて、父や中尉たちがどんなことに関わっているにせよ、私には何も出来ることはありません。けれど、そう思う人間がいるということだけ、知っておいてほしいと願っています」
静かにそう言うと、中尉は目を伏せて、「──うん」と小さな声で答えた。
***
それ以後、中尉はちょくちょく私と一緒にその場所へ行ってくれるようになった。
忙しそうなのは変わらないが、時間を見つけてアパートに戻ってきては、私を連れ出し家へと向かう。
「また君におかしな行動をされては、たまらないからな」
と中尉は言ったが、そういう時は、後をつけてくるような誰かもおらず、門の外に立って目を光らせる存在もなかった。
それはおそらく、「人質」に対して許していいことではなかっただろう。彼の上にいる人間は、このことを知ったら決していい顔をしないはずだ。もしかしたら、叱責では済まない可能性だってあるのに。
中尉は何も言わず、私のその小さな用事に付き合ってくれる。
変な人だ。厳しいかと思えば、不意に物柔らかな面を見せたりもする。
冷たく人を寄せつけないようなところがあるのに、時に静かな温容をたたえた目をこちらに向けてくることもある。
捉えきれない。彼はどういう人なのだろう。
私は彼を、どう思っているのだろう?
私が作業をしている間、中尉は大体いつも、テーブルのところで椅子に座っている。
最初のうちはじっと私を見ているだけだったが、回数を重ねるにつれて、だんだん本を読んだり、空を流れる雲を目で追うようになってきた。手持無沙汰なら何か食べていればいいのに、彼は毎回、私が庭仕事を終えるのを律義に待っている。
とうとう木陰で居眠りをしはじめるに及んで、私は呆れて手を腰に当て、中尉を見下ろした。
「中尉、私をちゃんと監視していなくてよろしいんですか」
木にもたれて芝生の上に座っていた中尉は、顔を覆っていた軍帽を指で上げて、眩しそうに目を眇めた。
「終わったか?」
「とっくに」
「じゃあ、休憩にするか。今日は何がある?」
「チキンパイと、パウンドケーキと、リンゴのコンポートがありますよ」
「いただこう、旨そうだ。まったく君は性格にいろいろと難があるが、料理の腕は抜群だな」
貶しているのか褒めているのか判らないことを言って、中尉は両手を上げて伸びをした。
なんでもないような顔をしているが、疲労の色はまだ濃いままだ。
私は口を開きかけて、やめた。どうせ何を言ったところで、はぐらかされるに決まっている。
その代わり、テーブルの上に置いてあったバスケットを持ってきて、私も中尉の隣に腰を下ろした。
「服が汚れるぞ」
「構いません。さあ、どうぞ」
食べ物を少しずつ取り分けて皿に載せ渡してやると、うん、と中尉がもごもご言いながら受け取った。まだ完全に眠気が取れていないのか、半分目がとろんとしている。
なんとなく子供っぽく見えて、可愛らしい。
「……なんだ?」
じろりと睨まれた。
「いえ、なんでも。私もいただきます」
しばらく二人で黙って、手を動かした。
柔らかい日差しが葉の間から漏れて降り注いでいる。
むせ返るような甘い香りに包まれて、あたりは落ち着いた静けさに満ちていた。
上空からはチチチという鳥のさえずりが、地上からは花々が風に揺れる優しい音が聞こえてくる。
穏やかで優しい午後だった。
まるで、この世界に自分たち二人だけがいるように思えてくる。
それは決して、悪い気分ではなかった。
「……こうしていると、私たちも少しだけ夫婦らしくなったような気がしますね」
ぽつりと言ったら、中尉がコンポートに咽て咳き込んだ。
こちらを振り向く彼の耳が赤い。この人は意外と純情なところがある。
「なぜ君は、いつもそう唐突なことを言い出すんだ」
「素直なタチなので、思ったことがそのまま口に出るんです」
「だったら直したほうがいい。どちらかというとそれは素直という長所ではなく、単細胞という欠点だ」
自分だって結構欠点が多いほうだと思うのに、中尉は偉そうに訓戒を垂れた。
「中尉も、その皮肉っぽいところと、口が悪いところと、疑り深いところを、もう少し直したほうがいいですよ」
「ずいぶん多いな。大きなお世話だ」
憤然と言って、そっぽを向く。
別の場所に顔を向けたまま、しばらくして、「……俺は」と小さな声を出した。
「俺は子供の頃に両親を亡くしたのでね。世の中の夫婦というのがどういうものなのか、よく知らないんだ」
「…………」
ちらりと見ると、中尉の横顔は無表情に近かった。
私は自分の皿の上の、パウンドケーキの欠片に目を落とす。ぎこちない沈黙の間を破るように、中尉が再びこちらを向いた。
「大体、夫婦っていうなら」
その声は、普段の彼のものに戻っている。
「いつまでも夫を階級で呼ぶような、よそよそしい妻はいないだろう」
「あら」
私は顔を上げ、目を瞬いた。
「そんなことはないです。母は、いつも父のことを『大佐』って呼んでいました」
それはもう愛情を込めた呼び方だった、と言うと、中尉は疑わしそうな顔をした。
「家の中でか?」
「外でも」
「距離を感じるな。大体、階級なんて変わるものじゃないか」
「ですから、その時の階級で呼んでいたんですよ」
私も、いずれ中尉を大尉と呼ぶようになるのだろうか。確かにそれはちょっと違和感があるかも──と思って、はっとした。
何を考えているんだろう。
そんな先まで、「形だけの夫婦」を続けるなんて、あるはずがないのに。
「あ、でも、時々は」
頭の中を掠めたものを振り落とすようにして、慌てて付け加える。
「他の呼び方もしていました。『あなた』とか、『ダーリン』とか」
そこでなぜか、中尉は勢いよく噴き出した。
「あのウォーレン大佐に、ダーリン……」
肩を震わせて笑いをこらえている。何がそんなに可笑しいのか、と私はむっとした。
「父と母は深く愛し合った、とっても仲のいい夫婦だったんです。父だって、母に対してはよく、『マイスイートハート、愛しのハニー』って」
「嘘だ、絶対嘘だ。溶岩がそのまま固まったような、狂暴な大熊みたいなあの顔で、そんな台詞が吐けるわけない」
「誰が溶岩で、狂暴な熊ですか!」
私はともかく、父に対する暴言は許せない。軽く小突こうと思って振り下ろした拳は、中尉の肩に触れる前に捕まって、止められた。
大きな手が、私の手首を掴んでいる。
一瞬、心臓が止まった。
決して、強い力ではなかった。むしろ、壊れ物を持ち上げるような、弱く優しい力だった。私が自分でその気になれば、いつだって容易にそこから引き抜くことが出来るくらいの。
中尉の視線がまっすぐ私の目を捉えた。
私は動けなかった。こちらに向けられるグレーの瞳を見返したまま、固まっていた。
彼の真顔と、一変した雰囲気に困惑して、または竦んで、または──または胸の鼓動が大暴れしているのを気づかれまいとして、ただ止まっていることしか出来なかった。
「──……」
中尉の唇がかすかに動いたけれど、そこから、少なくとも私の耳に届くような声は出てこなかった。懸命に聞き取ろうとしたのに、どうしても無理だった。
中尉もそこで動きを止めていた。掴んだ手首を引き寄せることも、突き放すこともしない。彼の眉に、口元に、瞳の中に、これまではなかった逡巡が浮かんでいるのを、私は見つけた。
しばらく、時間が止まったような空白を置いて、唐突に中尉は私の手首をするりと外した。
私に向かっていた視線も、別の方向へと逸らされた。
「……この庭は、人を惑わす不思議な力でも働いているらしい」
そう呟いて、立ち上がる。
私は自分の手首をもう一方の手で包み、そっと長い息を吐き出した。