3
少々歪ながら、私とレイズ中尉の同居生活は続いた。
自分が実際に見ていた両親の姿や、結婚とはこういうものだろうかとぼんやり空想していたものとはかけ離れていたけれど、そもそも名目上の夫婦なのだから、違って当たり前なのかもしれない。
むしろ、「人質として」と言うなら、怖いことも怯えることもない、静かな毎日であったと思う。
大体、一つ屋根の下で一緒に暮らしていると言っても、中尉はあまりまともに在宅していることがなかった。
アパートに戻ってきたと思ったら、着替えたりシャワーを浴びたりするだけで、またすぐ外出することがほとんどで、睡眠もソファで横になって、二、三時間仮眠をとる程度。
起きたらやっぱり、慌ただしく出て行ってしまう。
私は毎回見送る時と出迎える時は、「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言うようにしていたのだが、どういうわけか中尉がそれに返してくれることは、一度もなかった。
それ以外は、特に威張り散らすわけでもなく、無視するわけでもなく、まあまあ普通に会話を交わすのに、彼は妙なところで、頑なだ。
しかし、そんな不規則な生活だから、当然食事の時間もバラバラだった。というより中尉は、食べ物が目の前になければ、自分が空腹であるということも忘れてしまうような人だった。
仕方ないので、私はビュッフェ形式を取り入れることにした。
好きな時に好きなだけ食べてください、とテーブルの上に、常に数種類の料理を並べて置いておく。
私が起きている時なら、温かいスープを出したり、お肉を焼いて出したりするが、真夜中に帰った時などは、一人であれこれとテーブルの上のものをつまんで食べているようだ。朝起きると、部屋には誰もいないのに皿は空っぽ、ということもあって、まるで野生動物の餌付けをしているような気分になった。
ある時には、ボウルに大量に作っておいたプディングが半分以上なくなっていて、驚いたこともある。あんな性格なのに、どうやら中尉は相当な甘党らしい。それ以降は、ケーキやマフィンなども必ずテーブルの上に載せておくことにした。
顔を合わせるたび、中尉の疲労がどんどん積み重なっていくのが見て取れた。
目の下には隈があり、顔色もあまり良くない。きっと、ろくに休んでもいないのだろう。
ソファで死んだように眠る彼は憔悴しきっていて、嫌な夢でも見ているのか、たまに「熱い」と苦悶の声を零すこともあった。
とはいえ、人質という身の上である私が、彼のことを気遣ったり心配したりするのも変な話だ。
眠っている時に毛布をかけたり、額に浮かぶ玉のような汗をそっと拭うくらいのことはしても、それ以上のことは何もしなかったし、言わなかった。起きている時は、相変わらず猜疑心が強く可愛げのない中尉なので、「変わったことはないか」という定例の質問に、「はい、何も」と返すだけである。
多忙な中尉とは別に、私は私で、マイペースに日々を過ごしていた。
掃除して、洗濯して、料理をして。
外に出ればやっぱり見張りはついたけれど、気にしなければどうということもない。「食料や日用品を買う時はこれを使うといい」と中尉からお金を渡されたので、あちらも買い物くらいは容認しているようだ。
父のことは心配だが、どんな様子かは中尉が話してくれるので、あまり考えすぎないようにした。父は父で大変かもしれないが、無事でいるだけでもよしとせねばならないだろう。
こんな状態がいつまでも続くわけではないことは判っている。父が言っていた「その時」まで、私はただ大人しく待つしかない。
──でも。
時に湧き上がるじりじりした焦燥は、抑えつけるのが難しくなることもあった。
***
電話をかけてみようか、とは、何度も思った。
それがきっと一番簡単だ。一言、父に伝えるだけ。家を出る前あれだけ頼んでおいたことだ、父もそれを聞けば、そんなことかと呆れ、または思い出し、「わかったよ」と請け負ってくれるはず。
そうすれば、私だって安心できる。
用件としては本当に些細な、他人からすれば、ごくつまらないことだ。現在、軍部内で蠢いているらしい陰謀とは、まったくなんの関わりもない。普通の人が聞けば、どう考えても日常会話のひとつとしか受け取られないだろう。
しかし、だからこそ、迷う。
人質の立場である私が、父に電話をする。これだけでも、何かあると勘繰られるのは間違いない。あちらは当然、私と父がなんらかの接触をすることをひどく警戒しているはずだ。盗聴されている電話の内容は、中尉はもちろん、その上のほうにも伝えられ、精査される。中身が他愛ないことであればあるほど、これは何かの符号か暗号ではないかと、彼らは疑いの色を深めるだろう。
その結果、父に危険の及ぶようなことが、万が一にでもあったら困る。
忘れてはいけない、私は逐一行動が監視されている身だ。勝手な振る舞いが、父や周囲の人に迷惑をかける恐れがある以上、じっとしているのが最善なのだ。
だけど──でも。
私は唇を引き結び、窓の外を見た。
中尉の言葉通り、このところずっと、晴天が続いている。地面を湿らす程度の小雨ですら、降るような気配がない。
……このままでは、すべて枯れてしまう。
***
十日を過ぎたところで我慢が切れて、私はその日、決心して部屋の扉を開けた。
アパートを出ると、いつものごとく、一人の男が、向かいの建物の陰で新聞を広げて立っている。
そちらは見ないようにして、私はなるべくのんびりと足を動かした。少しして、彼もその後について歩き出す。
大通りの両側には、菓子店にパン屋、小物屋、洋装店、パブや食堂など、いろいろな店が立ち並んでいて賑やかだ。石畳の上を、明るい顔をした人々が元気に闊歩し行き交っている。
私はそれらの店を外から眺めるようにして歩きながら、ある店の前でぴたりと足を止めた。
ガラスのショーウィンドウの中には、洒落た帽子がいくつも飾られていた。軒先にぶら下がった木製の看板には、「マダム・テイラーの帽子店」と書かれている。構えはあまり大きくないが、それなりに高級そうな店だった。
飾られた帽子の向こうでは、お針子さんらしき若い女の子に、指示をしている背の高い女性の姿が見えた。おそらく、あれがここの店主、マダム・テイラーなのだろう。
スタイルがよく、頭のよさそうな女性だ。声は聞こえないが、きびきびした物腰と、女の子に教える態度から、しっかりした性格が窺える。彼女を見上げて頷く女の子の目には確固とした信頼が宿っていて、良い上下関係を築いているのだろうとも推測できた。
私はあくまで綺麗な帽子に引き寄せられたというように、ふらりと店のドアの取っ手に手をかけ、中に入っていった。
「いらっしゃいませ」
店主がよく通る声でそう言って、私に向かって微笑んだ。はじめての客、しかも上客にはなりそうもない若い娘でも、軽んじるようなところを見せず、「どんなものをお探し?」と優しく声をかけてくれる。
この人なら大丈夫だろう、と判断した。
私は眉を下げ、怯えた表情を浮かべた。
「突然すみません、マダム。助けていただけませんか。実は私、さっきからずっと、見知らぬ男に後をつけられていて」
両手を組み合わせ、声を震わせて縋るようにそう言うと、女性はその美しい顔に、さっと緊張した色を乗せた。
「こちらへいらっしゃい」
すぐに私の手を取り、店の奥へと連れて行ってくれる。
そのついでにショーウィンドウの外へ鋭い視線を走らせ、通りの反対側で所在なさげに立っている男を見つけた。「んまあ、見るからにいかがわしそうなやつね」と憎々しげに罵る。
「裏口から逃げるといいわ。エリー、この子を案内してあげなさい」
お針子さんも、「はい」と張り切って頷いた。こんなスリリングな経験は貴重だと、意欲満々の顔つきで、私に向かって手招きする。
「申し訳ありません」
私が深々と頭を下げると、店主の女性はひらひらと手を振った。
「いいのよ、気にしないで。あとは適当にやっておくから。あたし、女の子の後をつけ回すような無粋な男は大嫌いなのよね」
「これまでたくさんの男を足蹴にして振ってきた猛者は、言うことが違いますねえ」
お針子さんが冷やかすように笑うと、店主もふふんと満更でもなさそうに唇を上げた。
「まあね、男のあしらい方も心得たものよ。だから心配しないでいいわ。……あ、そうそう」
そうねえ……と、手近な帽子をいくつか見比べてから、淡い藍色の帽子を手に取って、差し出してくる。
「顔を隠すために、これを被っていきなさい。あなたの少ーし青みがかったブロンドの髪にも、今着ている洋服にもよく合うし。瞳にとても強い光があって人目を惹くけど、全体的に落ち着いた雰囲気だもの、これくらいの色がいいわね。とても魅力的だわ」
「まあ……ありがとうございます」
慌てて代金を出そうとしたが、店主は「いいのいいの」と手を振った。背中を押し、早く行きなさい、と促す。お針子さんが私の手を取って引っ張った。
裏口から出る前、私はお針子さんに帽子の代金を押し付けるようにして渡した。もちろん、中尉から渡されたものではなく、自分のお金だ。人のいい彼女たちを騙しているようで、ひどく申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ありがとう」
心を込めて言ってから、お針子さんに別れを告げ、走り出す。
──またもう一度、お礼とお詫びを言いに、来られればいいのだけど。
***
しかし実際に家の近くまで来てみたら、急激に気が挫けた。
自分がひどく愚かな行為をしているようで、たまらなく惨めな気持ちになった。あと三つ角を曲がった先に目指す場所がある、というところで足を止め、立ち尽くす。
考えてみれば、父が仕事中でいなくとも、あの家に見張りが立っていないとは限らないのだ。あちら側にとって警戒すべき訪問客が来ないかどうか、目を光らせている誰かがいるかもしれない。
そんなところへ、私がのこのこ戻っていったら、どうなるだろう?
今のところの安全は保障する、というあの言葉もきっとご破算だ。
軍にいる父は、窮地に立たされることになる。
陰謀の内容によっては、より大きな危険が降りかかる可能性だってある。
「…………」
ふー、と深いため息をつく。
悄然と肩を落としているところへ、「……シェリル姉ちゃん?」と後ろから声をかけられて、私は飛び上がった。
振り向くと、トマス少年が、大きな目をますます真ん丸にして立っている。仕事の手伝いなのか、細い材木を数本、肩に担いでいた。彼の父親は腕のいい大工なのだ。
「姉ちゃん、こんなところで何してるんだよ? 最近、姿を見ないから、みんなで心配してたんだぜ。大佐も近頃、帰りが遅いようだしさ」
私はトマスの肩に手を置いて、人差し指を唇に当てた。賢いトマスは口を噤んだが、不審そうにこちらを見上げている。
「トマス、私とここで会ったことは、誰にも内緒にしておいてもらえる?」
「ああ、いいよ。姉ちゃんにはいろいろ世話になってるからね、黙ってろって言うなら、死ぬまでだって口を閉ざしてるよ」
「ありがとう」
ここで会ったのがこの少年であったのは、本当に幸運だった、と私は思った。
「トマス、最近、私の家の近くまで行った?」
音量を抑えて訊ねてみると、トマスはあっさり頷いた。
「うん、何度もね。姉ちゃんがどうしてるか気になって。けど、いつ行っても誰もいないし、外から覗いてみても、どこもがっちり閉められててさ──」
「家の周りに、見知らぬ人が立っている様子はなかった?」
「見知らぬ人?」
トマスはぽかんとしてから、考えるように首を捻った。
「さあ……俺は気づかなかったなあ。このあたりは大通りから外れて静かだからね、知らない顔がウロウロしてたら、目立つと思うけど」
「そう」
だとすると、家のほうまでは手が廻っていないのか。
「なんなら、今から俺が行って、見てこようか?」
「いいえ、だめ」
トマスの言葉に、私はきっぱりと首を横に振った。
その時こそ、痛感した。
私は、ここに一人で来てはいけなかったのだ。
私がしたことは、優しい人たちに迷惑をかけ、私を心配してくれるこのトマスのような少年までこちらの事情に巻き込むことになりかねない、浅はかな行動だった。
「ごめんなさい、トマス。私を見かけたことは忘れてちょうだい。それから、今後は出来るだけ、私の家に近寄らないようにして欲しいの」
「なんでさ? だって──」
「お願い」
不満そうに唇を尖らせたトマスは、私がじっと目を見て頼み込むと、むうっとして黙り込んだ。
「……姉ちゃん、大丈夫なのか?」
「ええ、大丈夫。私のことは心配しないで」
笑って見せたが、トマスの表情は晴れない。
「ねえ、トマス、さっき、家を外から覗いてみたって言っていたけど」
「うん、まあね。でも、別に」
「──庭は、荒れているようだった?」
私の問いに、トマスは、は? という顔をしてから、納得したように目を瞬いた。
「ああそっか、姉ちゃん、いつもあの庭をせっせと手入れしてたもんな。……そうだなあ、荒れているってほどじゃなかったけど、花も木も元気がなかったな。みんな下を向いて、萎れてたよ。世話をしてくれる姉ちゃんがいなくて、寂しいんじゃないのかな」
トマスの返事に、そう、と答えるのが精一杯だった。
結局、家には行かず、その場所を見ることもなく、私は踵を返して、自らを閉じ込める檻の中へと戻っていった。
***
当然ながら、その件はすぐに中尉の許へ報告が行ったらしい。
険しい表情でアパートの部屋に戻ってきた彼は、何もせずぼんやりとソファに座っていた私を見つけ、「どういうつもりだ」と厳しい声音で問い詰めてきた。
私はのろのろと目線を上げ、その顔を見た。
「どういうつもり、とは?」
「とぼけないでもらおう。今日、途中で尾行を撒いて、どこかに行方をくらませたそうだな。どこに行っていた? 何をしていた? 誰と会っていたんだ」
立て続けに質問を繰り出す中尉の口元を眺めていたら、だんだん腹が立ってきた。
まるで、浮気をしてきた妻を責め立てる夫みたいな台詞だ。
「どこも行っておりませんけど。可愛らしい帽子を見つけて、店に入ったのが、そんなにいけませんでしたか? でしたら尾行者の方も一緒にお店に入ってきたらよかったのに。あのハンチング、ちっとも似合っていませんねと一度教えてあげたかったんです」
「そんなことを言っているんじゃない。帽子屋を隠れ蓑にして、逃げだしただろう」
「あら、それは言いがかりというものです。私は普通に買い物をして、店を出て、ここに戻ってきました。なんでしたら、今日買った帽子をお見せしましょうか? 流行りの型の、それは素敵な帽子なんですよ」
「ふざけたことを……」
「ふざけてません。私を見失ったのは、そちらの手落ち。私が責められる筋ではないと思います。怒るのでしたら、ご自分の部下の無能さに向けるべきでは?」
はっきりとそう言ってやると、中尉は苦々しい顔になった。
「君のせいで、そいつは帽子屋の主人に水をぶっかけられてな。野次馬に囲まれるわ、周りに不審者として白い目で見られるわ、憲兵まで呼ばれるわで、ほうほうの体で逃げ帰ってきたそうだ」
あのマダムは、やっぱり強い女性だったらしい。
中尉は眦を吊り上げた。
「こんなことで騒ぎになって下手に注目を集めでもしたら、こちらの苦労も水の泡だ。自分の立場を理解しているのか、君は。どういう軽い気持ちでこんな真似をしでかしたのかは知らないが、君の行動でどれだけの人間が害を被ると思っている。君自身や、君の父上である大佐はもちろん、この件に関わっている者すべてに危険が及ぶのかもしれないんだぞ。俺たちの計画が途中で頓挫するようなことになったら──」
「…………」
私は唇を引き結び、拳をぐっと握りしめた。
お腹の下のほうから込み上げてくる強い感情が、頭も身体も支配してしまいそうだった。
ずっと抑えつけていたものが、今この時、制御できない激しさをもって一気に溢れ出ようとしている。
計画、陰謀、機密、命令、策謀、支配──そんなことばっかり。
これだから、軍人は大嫌いだ。
「では」
私はすっくと立ちあがり、真正面から中尉を見据えた。
いきなり顔つきと声の調子が変わった私に押されたように、中尉が続けようとした言葉を呑み込む。
「明日、少しだけ、中尉の時間を私にください」
「……は?」
いきなりの要求に、中尉は目を丸くした。
「時間……というと」
「ほんの一時間程度で結構です。私のために、それだけの時間を捻出してください。何時でも構いませんが、明日、朝から陽が落ちるまでの間に」
「……何のために」
困惑したように言う中尉に、私は両足を踏ん張り、腕を組んで、ふんと鼻から息を吐き出した。淑女のすることではないが、この際そんなことは言っていられない。
「一時間ほど、私に付き合っていただきます。私がどこに行って、何をするか、中尉ご自身の目で確かめればいいんだわ。人を介したら、疑り深いあなたのことですもの、どうせまた難癖をつけるに決まってます。ご本人がついてくれば、間違いないでしょう? それに」
どん、と片足を踏み、組んでいた腕を解いて、びしりと人差し指を中尉の鼻の前に突きつける。
中尉は唖然として、私を見返していた。
「それに、仮にも一応私の夫だというのなら、一時間くらいは他人任せにしないで、あなたが私を監視なさい! よろしいですね、決めましたよ! 明日、中尉は私と一緒に出かけます!」
「…………」
中尉はまじまじと私を見つめてから、ややあって、「……わかった」とぽつりと了承した。
軍帽を被ったままの頭に手を置いて、横を向き、小さな声で呆れたように呟く。
「さすが、ウォーレン大佐の娘だ……」
それから、ぷっと噴き出した。
***
翌日、ちゃんと昼過ぎに帰ってきた中尉と一緒に、私は再び自分の家へと出かけた。
目的地を聞いて渋い顔をした中尉に、「家の中には入らないから」と約束し、懐かしい気分で門をくぐる。
そのままポーチの前を通って庭へと廻り、隅に置いてあった木製のテーブルと椅子を運ぶと、庭の中が一望できる位置に置いた。
「さあ、中尉、こちらにお掛けになってください」
そんなに広大な面積があるわけではないので、ここからなら、私の姿がイヤでも目に入る。怪しい動きをしないかどうか、ちゃんと見ることができるだろう。
「──で、君は何をしにここへ?」
素直に椅子に腰を下ろして、中尉は油断なく周囲に視線を動かして言った。
「庭の手入れをするんです」
「庭の手入れ?」
反問する中尉は、言葉の意味が判らないように、少し間の抜けた顔をしていた。
「水をやって、雑草を抜いて、栄養が足りなくならないようにあちこち間引きして、肥料も少し足すんです。中尉はここから、私が土の中に秘密文書をこっそり埋めないか、よく見張っていてください」
そう言いながら、私は持ってきた大きなバスケットから白いクロスを取り出して、テーブルの上にふわりと被せた。
ミートパイ、スコーン、サンドイッチ、チョコレートケーキ、と次々に出して並べていくのを、中尉が魔法でも見るかのように眺めている。
「……まるでピクニックだな」
「監視中に眠くなるといけないでしょう? だから、目が覚めるようにと思って」
用意を整えてから、付け加えた。
「──それに、中尉には少し、糖分と休息が必要ですよ」
しばらくの間放置されていた庭の花々は、瀕死の状態ではあったものの、完全に枯れてしまったわけではなかった。
父も不慣れながら、多少の水くらいはあげていたらしい。しかしもう少し遅かったら、取り返しのつかないことになっていただろう。
母が大事にしていたこの庭が、荒れ果てた枯れ野のようにならなくてよかったと、私はほっと胸を撫で下ろした。
作業を終えて手を洗い、テーブルのところに戻った私を、中尉は黙ったまま迎えた。
寝てはいなかったようだが、食べ物にはひとつも手がつけられていない。
「毒なんて入っていませんよ?」
首を傾げると、中尉は両手を広げるような仕草をした。
「どうせなら、君と一緒に食べようと思って、待っていた。庭仕事なんてやったことはないものでね、そちらは手伝ってもかえって足手まといになるだろうから」
そう言って、早速、ミートパイを取って口に入れる。
私はやんわりと微笑んで、頭を下げた。
「ありがとう、中尉」
……なんだかんだ言って、中尉は私のやることを咎めもせず止めもせず、私が庭を整えるのを、ただじっと待ってくれていたのだ。
軍人の彼から見れば、それはあまりにも、つまらなくくだらない、ちっぽけなことであっただろうに。
中尉は知らんぷりでパイにかぶりつき、鮮やかな花の咲き乱れる庭へ視線を移した。
「見事な庭だな。世話をしていた人間の熱意が伝わってくる」
ふふ、と声を立てて笑い、私もそちらに目をやる。
一面に敷き詰められた芝生には、やわらかなクローバーが群生し、まるで緑の絨毯が広がっているようだった。その周りを取り囲む、石鹸を泡立てたような白く小さな花は、ハチミツに似た甘い香りがする。紫色のライラックや、ピンク色のアスターが彩りを添え、愛らしい黄色のタンポポが、見る者の目を和ませていた。
アーチに絡まるバラの蔦、母が好きだったミモザの木、独特の形をしたシダの葉っぱ。私の目には、それらの何もかもが美しく見える。
幸福の象徴のような庭。
「……ここは、母がなにより愛していた場所なんです」
私の言葉に、中尉はほんの少し片眉を上げた。
「それで、どうしても放っておけなかった、と? あんな剣幕で喰ってかかるくらいだからな。まったく、君のような親思いの娘を持って、さぞかしウォーレン大佐も、亡くなった母上も、鼻が高いだろうさ」
皮肉っぽい口調で言って、肩を竦める。
私は彼のほうに目を戻して、静かに口を開いた。
「中尉は、なぜ父が未だに大佐なのか、その理由をご存知ですか?」
「なんだ、君はいつも唐突だな」
食べていたパイが喉に詰まったように一度咳払いをしてから、中尉は少し口ごもった。
「詳しいことは、よく……ただ、先の戦争の時に、命令違反を犯したというような話を聞いている」
「そうです」
私は頷いた。
「父は有能な軍人として、戦争で活躍したそうです。数々の武勲も立てたので、それだけなら、もう少将か中将くらいにはなっていたかもしれません。──けれども、父はあの戦争で、とんでもない拾い物をしてしまったんです」
「拾い物、というと」
「子供を」
中尉が目を瞠る。私は微笑んだ。
「──爆弾で両親を失い、焼け野原となった戦地で泣いていた、幼い女の子です。たまたま、神の悪戯というものが働いて、どういうわけか助かってしまったその女の子に、手を差し出す人間は誰もいませんでした。だって、周りは死体ばかりで、生きているのはその子一人だけだったんですもの。声をかける人も、手を引っ張って一緒に逃げる人もいない。うずくまって、ただ泣くことしか出来なかった女の子を、父はどうしても放っておけませんでした。……見捨てていけば、他のたくさんの亡骸の中に混じるだけだと判っていた。目を逸らして気づかない振りをしていれば、きっとそのほうが楽だった。にも関わらず、父はその子を抱き上げたんです。そして銃を背負い、部下を率いて、戦場を駆け抜け自陣に戻りました。それはもう、激しく叱責されたそうですよ」
怒鳴られ、殴られ、容赦なく上官たちに突き上げられても、「さっさと捨ててこい」という命令に、父は頑として従わなかった。
結局そのまま周囲からの反対を押し切って、身寄りのなくなったその子を戦地から連れ帰り、自分の娘として育て上げた。
痩せっぽっちで、真っ黒で、泣くことしか出来なかったひ弱な子供に、惜しみない愛情を注いでくれた。
そりゃあ、上からは煙たがられ、睨まれるに決まっている。その時点で、父の軍人としての出世の道は閉ざされたも同然だった。
それでも、父は言うのだ。
──幸福は天から与えられる。天から与えられたシェリルは、自分たち夫婦の宝で、幸福そのものだと。
そんなわけないのに。