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あちこちに散らばった衣服をクローゼットに収納し、本を本棚に並べ、明らかにゴミと判るものをすべて袋に突っ込んでまとめた。
室内にくまなく箒をかけて、あらゆる埃を掃き出してから、モップで床を水拭きする。積み上げてあった皿もすべて綺麗に洗って、流しをぴかぴかになるまで磨き上げた。
ようやく置いてあるもののなくなったテーブルや、薄汚れていた椅子もさっぱりと拭き、放置してある箱に押し込められて悲鳴を上げていた服や生活用品を救出して、それぞれのあるべき場所に整頓して戻してやる。
するとそれだけで、部屋は見違えるように息を吹き返した。
極上の空間、とまでは言えないけれど──と思いながら、雑巾を持った手を腰に当て、ぐるりと見渡してみる。
そこで改めて、私は気づいた。
──片づけてみれば、そこはひどく殺風景な、寒々とした部屋だった。
埃も蜘蛛の巣もないが、飾り気も潤いもない。
白い壁と木の床は剥き出しで、敷物もクッションもなく、絵も写真も花も、人の心を慰めるためのものが何ひとつない。
本はたくさんあるけれど、どれも難しそうな専門書ばかりで、そこに小説や雑誌などは一冊も混じっていなかった。
趣味も娯楽もない。
あまりにも空虚で、温かみというものが欠片も存在しない。
知人、友人、恋人、家族などの、彼の個人的な繋がりを感じさせるものが、どこを探しても見つからない。
レイズ中尉にとっては、物に溢れ雑然としたあの部屋のほうが、まだしも落ち着く場所だったのかもしれない、と思ったら、少し申し訳ないような気分になった。
ふと気づいて、窓の外を見ると、もう陽が落ちようとしている。
「そういえば、お腹がすいたわ」
考えたら朝からほとんど食べていなかった。腹部を手で押さえながらひとりごちて、キッチンに向かい、冷蔵庫を開けてみる。
「……うん、そうよね、まあ、予想はしていたけど」
そこに入っていたのは、ミルクと、チーズと、卵と、お酒の瓶くらいだった。中尉は「適当に済ませて」というようなことを言っていたが、きっと彼自身、食事というものを毎回適当に済ませているに違いない。
食糧庫のほうを漁ってみたが、そこでも大したものは発見できなかった。ひとかたまり残っていたパンは今にも干からびそうなほど固くなっていて、おまけにバターもジャムもない。あとはお酒のつまみであろうナッツ類と、かろうじてリンゴがあるくらい。
パン種をこねようにも、粉がない。
「どうしても明日、買い物に行かなくっちゃ」
私は大きな息を吐いて、呟いた。
***
リンゴとミルクをとりあえず胃に収め、シャワーを浴びてからソファに座っていたら、いつの間にかウトウトしていたらしい。
ガチャガチャという鍵の音で目を覚ますと、外はすでに真っ暗になっていた。時計に目をやると、もう真夜中だ。
ドアを開けて入ってきた中尉は、居間の入り口に立ち尽くし、目を丸くしていた。
「床が見える……」
茫然としながら小さな声でそう言い、彼は私に視線を移した。
「君がやったのか?」
「他に誰がいます? おかえりなさい、中尉」
私はソファから立ち上がりそう言ったが、中尉は口を曲げて、返事をしなかった。部屋の中に足を踏み入れ、改めてまじまじと周囲を見回し、呆れたように息をつく。
「意に沿わない結婚を無理やりさせられて、この世に絶望して泣き暮らしているかと思えば、思った以上に元気なようだ」
たっぷりと皮肉のこもった声音に、私は肩を竦めて「どういたしまして」と応じた。
女子供が生意気な態度をとると、怒鳴ったり殴ったりの強圧的な手段で黙らせようとする短気な軍人も多いと聞くが、どうやら中尉はそういうタイプではないようで、やれやれというように首を振っただけだった。
「俺の城をめちゃめちゃに掻き回されたような気分になるな」
「前の状態のほうが、よほどめちゃめちゃでしたよ。それに、好きなだけ家探しすればいい、とおっしゃったのは中尉ではありませんでした?」
「わかったわかった」
うんざりしたように顔をしかめて、中尉は手を振った。
「こちらの命令に反抗的な様子も見せずに従うから、人形のようにおとなしいお嬢さんかと思っていたが、それは見込み違いだったようだ。……もう一度言うが、疑いを招くような軽率な行動は、厳に慎んでもらいたい」
「ええ、わかっています」
私はおとなしいお嬢さんらしく、従順に返事をしたつもりだが、中尉は非常に疑わしそうな目つきをした。
「何か飲み物を用意しましょうか?」
私がそう言うと、彼は首を横に振った。
「いや、結構だ。ここへは着替えをするために戻ってきただけだから、またすぐ出ていく」
一応とはいえ、今日結婚したばかりの花婿なのに、ハードなスケジュールだ。彼の上官は、部下に休息を与えることにあまり積極的ではないらしい。
──あるいは、それほどまでに切羽詰まった案件が、目前に迫っているということか。
「ではお手伝いしますね」
そう申し出ると、中尉は「……何を手伝うって?」と、胡乱な目で私を見た。
「着替えに決まっているじゃないですか。父の世話で慣れていますので、ご心配なく。下着と新しい軍服を用意して、あ、そうそう、すぐにお湯を沸かしますから、固く絞ったタオルで体を拭いて差し上げ──」
「バ……」
目を剥いて何かを言いかけた中尉は、急いで口を噤み、取りつく島のない冷ややかな表情になった。
「……そんなことは自分で出来るからいい。俺のことは気にするなと言っただろう。君はもう寝たまえ」
しかし、耳が赤いのは隠しようがないらしい。
「そうですか。では」
素直に引き下がって頭を下げ、居間を出ていこうとした私の背中に、「それから」と声がかけられた。
振り返ったが、彼はもう後ろを向いてしまっている。
「それから、若い娘がそのようなことを軽々しく言うものではない」
お説教をするような厳めしい言い方に、「はい」と私は真面目くさって返事をしたが、居間を出た途端に我慢できなくなって、ちょっと噴き出した。
***
翌日目を覚ますと、中尉はすでにいなかった。
結局本当に着替えるだけで、そのまま出て行ったようだ。ちゃんと食べているのかしらと首を傾げたが、そんなことは考えても私に判るわけがないので、すぐに頭から放り出すことにした。
今は中尉のことよりも、私の食事問題のほうが優先だ。固くなったパンだけで空腹をしのぐのは、出来ればもっと極限状態になるまで遠慮したい。
天気がいいので、シーツを洗って干し、ついでに昨日は手の廻らなかった寝室の掃除をする。
その部屋は中尉が言ったとおり、居間やキッチンほど悲惨な状態ではなかったので、比較的手間もかからなかった。大体、そこにある家具はベッドと小さな棚くらいだ。その棚にも本が乱雑に突っ込まれているだけで、あとは置き時計と──
「あら……」
私は目を瞬いて、本に挟まれて潰されていたものを取り出した。
「人形?」
それは、この部屋とあの中尉にはまるで似つかわしくない、可愛い人形だった。
誰かの手作りなのか、素朴な感じがする男の子の人形。
髪の部分の茶色い毛糸はボサボサで、手縫いの洋服は端がほつれ、ところどころ破れている箇所もあった。灰色のボタンで出来た目は片方が取れかかっていて、かろうじて繋がった糸でぶら下がっている。
そしてその人形は、ひどく汚れていた。
全体的に煤がついて黒ずみ、あちこちが焼け焦げてもいる。
人形の足には、何かが飛び散ったかのような染みがこびりついていた。
「…………」
私はしばらくその人形を見つめてから、今度は本に潰されないように、棚の中にそっと戻した。
ずいぶん古ぼけた人形だ。作られてから、相当な年月が経過しているのだろう。手荒い扱いをしたら、すぐに修復不可能な壊れ方をしそうな脆さがある。私は細心の注意を払って人形の手足に触れ、髪の毛を整えた。
これがどんな由来のものかは判らない。中尉がこの人形に対してどんな感情を持っているのかも知らない。大事にしているのか、そもそもこの存在をちゃんと認識しているのかも不明だ。
それでも私は、他人の心の非常に繊細な部分に触れたような気がして、とても後ろめたかった。
人形は決して何も語らないけれど、じっと座ってこちらを見返す取れかけた目は、胸を締めつけるほど寂しげで、悲しげに見えた。
***
中尉の言葉に嘘がなかったということは、アパートの外階段を降りて、きょろきょろとあたりを見回してみただけですぐに判った。
道を挟んだ向かいの建物の陰から、誰かがじっとこちらの様子を窺っている。
軍服を着てはいないが、彼を覆う独特の雰囲気は明らかに一般人のそれではなかった。シャツとベスト、その上にトレンチコートを着て、深めに被ったハンチング帽から鋭い眼だけが覗いているその姿は、いかにも胡散臭い。
あっさりと私に彼が見つけられたのは、見張りが下手だからというより、そもそも隠れるつもりがないからなのだろう。いつでも見ているぞという威嚇と牽制が目的なのだ。
なるべく彼のことは気にしないようにして、私はのんびりと歩き出した。
足を動かしながら、考える。
──軍事機密とは、一体どんな内容のことなのか。
父によると、ノア・レイズ中尉は、今ひとつ出自がはっきりしない人であるという。
大した後ろ盾もないようなのに、いつの間にか軍部内でめきめきと頭角を現して、ギリング中将に目をかけられるようになった。
ギリング中将は、軍人は家柄よりも能力が重要だという考えの持ち主で、自身もその才覚と戦績で上の階級までのし上がった実力者だ。自分の意見を押し通す時に強引な手法を取ることもあるため、父とはソリが合わないが、一部の若手軍人たちからは絶大な支持を得て、一大派閥を作り上げている。
だとすると、中尉の言う「我々」のトップはギリング中将、ということか。
式を挙げる前、父は怖い顔で何度も念を押した。
「いいかね、何か異変があったら、その時はすぐに逃げなさい。私のことは案じなくともよい。身ひとつでもいいから、中尉の許を離れるんだよ。でなければ、おまえも事に巻き込まれる恐れがある」
異変というのは具体的にどんなことかと問うても、父は渋い顔で黙り、
「その時になれば、おまえもきっとすぐに判る」
と言うだけだった。
その時……と私は青い空を見ながら、考えを巡らせる。
その時、何が起こるのか。その時とは、いつのことなのか。その時、私はどんな行動をとればいいのか。
まだ、何も判らない。
「いいかねシェリル、これだけはくれぐれも言っておく。あのレイズ中尉に、決して心を許してはいけないよ」
しつこくそう繰り返す父の声だけが、いつまでも耳の奥で響いていた。
***
空がオレンジ色に染まり始めた頃になって、中尉が戻ってきた。
「おかえりなさい、中尉」
今日はちゃんとドアのところまで出迎えて私は言ったが、中尉はじろりと睨むようにこちらを見ただけで、やはり何も返してはこない。
軍帽を外し、くん、と鼻をうごめかす。
「いいところに帰られましたね、中尉。今ちょうどチキンが焼けたところなんですよ」
「…………」
中尉は黙って私の前を通り過ぎ、きちんと整理整頓されたキッチンに、美味しそうな食べ物がずらりと並んでいるのを見て、昨日と同じような顔をした。
「──今日、買い物に行ったそうだな」
すでに報告を受けているらしい。
「ええ」
「買ったものは、チキン、ジャガイモ、玉ねぎ、ニンジン、バター、砂糖、小麦粉、レモン、クリーム、ジャム二種類、オートミール、コーンフレーク、ベーコン、プラム、その他諸々」
メモも見ずに、中尉は長々と暗唱した。
一旦言葉を切って、ふー、と息をつく。
「俺にこれを報告してきた男は、『あの娘はこれから大人数を呼んでパーティーでもする気か?』と恐れをなしていた」
「残念ながら、パーティーを開くには材料が足りません。これでも最小限揃えただけなんですよ」
これらを買っただけでもう私の両手は塞がってしまったので、他を買うのは断念するしかなかったのだ。いかにこの家に何もなかったか、ということでもある。
「言っておくが、俺を餌付けして懐柔しようとしているなら無駄だぞ」
「あら、それはいい手ですね」
ちっとも思いつかなかった、と頬に手を当てると、中尉はますます警戒するような表情になった。
「まあ、冗談はともかく」
「本当に冗談なのか」
「特に他意はありません。どうせ暮らすのならなるべく清潔な環境で過ごしたいし、食事をするなら美味しいものが食べたいと思っただけです。どうしても気に入らない、私の作るものなんて信用できないから口に入れたくない、と言うのなら、召し上がらなくて結構ですよ。でも、私は私で、勝手にいただきますね」
そう言うと、私はさっさと準備を再開した。
オーブンから焼けたチキンを取り出し皿に載せると、香ばしい匂いが部屋中に広がった。じゅうじゅうという小さな音とともに、もわっとした湯気が上がる。ほんのり焦げ目がつきパリッと仕上がった皮、てらてらと輝く肉の脂が、見た目にもたまらなく食欲をそそる。付け合わせには、マッシュポテトと甘く煮たニンジンを添えた。
ふんわりキツネ色に焼き上がったパンと一緒にテーブルに置いて、「あら、今日のは上出来だわ」と私は独り言を言った。
中尉は黙っているが、目はテーブルの上に釘付けだ。
料理には興味がなくとも、食べることにまで関心を失ってしまっているわけではないらしい。
「では失礼して、私だけお先にいただきます。……あら中尉、そんなところで立っていないで、お座りになったら? ここはあなたの家なんですもの、ゆっくり寛いでください。何も食べないというのなら、お茶くらいお煎れしますけど」
「…………」
中尉は忌々しそうに舌打ちして、勢いよく椅子に腰を下ろした。
「──俺の分の皿も用意してくれ」
腹立たしそうに出されたその言葉に、私は「はい」と答えてにっこりした。
二人分の皿を置き、チキンを切り分け、スープを注ぐと、中尉は早速パンに手を伸ばした。
それを口に入れる手前で動きを止める。
私が両手を組み合わせ、食前の祈りを捧げていることに気づいたからだ。
組んでいた手を解いて目を上げると、中尉はパンを持ったまま、なんとも所在なさそうな顔つきをしてこちらを見ていた。
首を傾げた私に、気まずげに苦笑する。
「いや……無作法ですまない。俺には長らく、そういう習慣がなかったものだから」
「気になさらないで、中尉は中尉の流儀を通してください。どんなことでも、それぞれの家庭でやり方が違って当たり前ですもの」
私がそう答えると、中尉の視線がふらりと流れるように逸らされた。「家庭」の部分に反応したのだなと私は推測して、「さあ、いただきましょう」と自分もスプーンを取った。
「大佐のところでは、いつもこんな風に?」
「ええ。父よりも、母のほうが信心深かったようですね。すべてのものが神の思し召しだから、私たちはそれを喜んで受け入れなければ、と、生前よく言っていました」
「それは敬虔なことだ」
中尉の台詞にも表情にも、感心よりも皮肉のほうが濃く出ている。
「大佐が真面目なのも、その影響を受けたのかな」
「そうかもしれませんね。幸福は天から与えられるものだと、私に教えてくれたことがあります」
「……軍服を着ていて、よくも天や神なんて信じられるものだな」
中尉は低い声でぼそりと言った。その言葉は皮肉で言っているのではなく、私に聞かせるためのものでもないようだった。グレーの瞳には、どこか暗い影が落ちている。
けれど次の瞬間には、彼はあっという間にそれを振り払い、再び私のほうを向いた。わずかに上がった唇には、どこかからかうような色が乗せられている。
「それで君も両親の薫陶を受けて、立派な教徒になったというわけだ。今回のことも、神が与えたもうた試練だ、と甘んじて受け入れているわけか?」
「私は神なんてこれっぽっちも信じていません」
さらりと言うと、中尉は目を見開いた。
ふふ、と笑って、私は澄ました顔でスープをすくう。
冗談ですよ、と言うように。
一度口をつけ始めると、中尉はものすごい勢いでテーブルの上の食べ物を次々に片づけていった。
「中尉、パンも肉も逃げませんから、ゆっくり食べてください。喉に詰まってしまいますよ」
「悪いが、時間をかけて料理を味わうという習慣もなかったんでね。大体、軍本部の食事がどんなに酷いか知っているか。何も考えず、ただ咀嚼して呑み込むようにしないと、吐き出してしまいかねない味なんだ。それに、まともなものを食えるうちに食っておく、というのは軍人の鉄則でもある」
あれだけ量があったのに、皿の大半はもう空っぽだ。
「それくらい綺麗に部屋の中も片づけられればいいのに……」
「何か言ったか。君はどうも少しお節介なところがあるな。若いのに、近所の世話焼きおばさんみたいな顔と言い方をする」
失礼な、と私は頬を膨らませた。
「母が亡くなってからずっと父の世話をしてきたんですから、仕方ないです。父も中尉と一緒で、自分のことには無頓着な……」
そこまで言って、心配になってきた。
「……あの、父はどんな様子でしょう」
私だけでなく父のことも監視しているというのなら、そちらのほうも中尉は把握しているはず。私が訊ねると、中尉はようやく皿から視線を外し、こちらを向いた。
「まあ、元気溌剌というわけにはいかないが、ちゃんと仕事はこなしておられるようだよ。周りの人間も、大佐が萎れているのは、大事な一人娘が嫁に行ったためだと解釈しているらしい。今までの溺愛ぶりが窺われるというものだが、いつもと様子が違っても、勝手に納得されて変に怪しまれることもないのでね、こちらとしては助かっている」
きっと、こうなったのもすべて自分のせいだと責任を感じているのだろう。あの父が大きな身体を縮めて打ちひしがれているところを想像すると、胸が痛んだ。
そんなことで、ちゃんと食事はしているのだろうか。
いや──そもそもそんな精神状態では、他のことに目も頭も廻らないのではないか。
そんなことをふと思ったら、一抹の不安が胸に兆した。
気もそぞろになってきて、ぼうっと宙を見つめたまま動きを止める。そんな私をどう思ったのか、中尉は肩を竦めた。
「そんなに心配しなくても、大佐はそれくらいで参ってしまうほどヤワな人ではないだろう。俺を見るたび、今にも襲いかかる寸前の猛獣さながらの顔で睨みつけてくるから、同僚からは、あんな舅を持ってしまって大変だなと同情されるくらいだ」
父は自分の部下たちにはよく慕われているのだが、あまり知らない人たちからは、怯えられることが多い。
「……他に気がかりなことでも?」
何かを読み取ろうとするかのように、目を覗き込まれた。その視線の鋭さに、やっと我に返る。
「いいえ、それを聞いて少しほっとしました。中尉、デザートもあるんですよ。いかがです?」
レモンパイを指してそう聞くと、中尉は少しイヤそうな顔をした。
「俺の胃袋を掴もうって作戦は通じないからな」
「そんなに世の中のすべてを疑ってかかっていたら、疲れません? パイにはホイップクリームがたっぷりと乗ってますから、甘いものがお嫌いでしたら、小さめに切り分けましょうか?」
「……大きめに頼む」
私は少し笑ってレモンパイにナイフを入れた。
皿を渡しながら、窓の外に目をやる。そこはもう闇に包まれ、星が輝きだしていた。
「──明日は、雨が降るかしら」
ぽつりと零した呟きに、中尉はあっさり首を振った。
「これから数日、雨は降らないな。しばらく好天が続きそうだ」
そう……と答えて、私は眉を下げた。