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大きな買い物袋を両手に抱えて帰ると、我が家の門の前に、ちょっとした人だかりが出来ていた。
何かあったのかしら、と首を傾げながら近づいていく。その私を見つけて、顔馴染みの近所の少年、トマスが慌てて駆け寄ってきた。
「シェリル姉ちゃん!」
「こんにちは、トマス。どうしたの?」
挨拶してから訊ねてみたが、トマスはそんな場合じゃないんだと言いたげに、興奮した面持ちで私の腕を掴んだ。
その勢いで、オレンジがひとつ、ころんと紙袋から落ちて転がる。拾い上げるために腰を屈めようとした私よりも先にそれをひったくるように手に取って、トマスはもどかしげに地団駄を踏んだ。
「姉ちゃん、オレンジどころじゃないんだってば」
「でも、それでケーキを作ろうと思ってたのよ」
「もしかしたら、のんびりケーキを作るような暇はなくなるかもよ」
トマスは奇妙に予言めいたことを言って、私を引っ張っていった。人だかりをかき分け進んでいくと、周囲の人々からの心配そうな視線が、いっぺんに私に向かって降り注いだ。
「ほら」
ようやく門の前に辿り着き、トマスが顎でしゃくる。
人々が遠巻きに取り囲んでいたものを見やって、私も驚いた。
「まあ……車」
そこには、ぴかぴかと輝く黒塗りの自動車が、近寄りがたい威圧的な雰囲気を伴って、家の門を塞ぐようにして停まっていた。
頑丈そうな鉄の塊、ごつごつとした無骨な形状、車内がよく見えない灰色の分厚いガラス、恐ろしいほど排気ガスを噴き出しそうな銀色のマフラー、そして暴力的なまでに重量のありそうな大きなタイヤ。
街中でもあまり見かけることのないそれを、思わずまじまじと眺めてしまう。
確かに立派だ。そして、すべてにおいて進んだ技術を感じさせる。けれど、どこかやっぱり不気味でもあった。こんな自分の意思もない、ぶつかっても痛みを覚えない乗り物が、人を運ぶのか。
喧しい音と黒い煙をまき散らして道路を走る「車」というものに、私はあまりいい感情を抱いたことはなかったが、こうして近くで見てみると、やっぱり好きにはなれそうにないわ、と改めて思った。
「これ、軍の車だろ」
私を見上げて確認するように言うトマスの顔には、興味と不安とが半分ずつくらいの割合で乗せられていた。
まだまだ一般人には縁のない車というものに向ける興味と、それが軍に所属するものであることに対する不安、ということだろう。
周りの人たちが私に向けている表情も、どれも同じようなものだ。ここに至ってようやく、私の胸にもざわざわとしたものが湧き上がってきた。
「……姉ちゃん、ひょっとして大佐に、何か」
トマスはその先を言うのを遠慮するように、口を噤んだ。
父は軍人だ。だから、軍の車がここにあっても不思議ではない。しかし、父はかつて一度も、このような車を家にまで乗りつけたこともなければ、部下に送迎させたこともなかった。
しかも、こんな真っ昼間に家に戻ることも。
だからこそトマスもみんなも、普段とは違う「何か」が父の身に起こったのではないか、と案じているのだ。
「大丈夫よ」
私は内心をお腹の下のほうに押し込んで、トマスに笑顔を向けた。
顔を寄せて声の音量を下げ、彼の耳元で囁く。
「きっと、大したことじゃないわ、心配しないで。それよりも、いいこと、家から誰かが出てくる前に、ここから離れなければだめよ、トマス? 他の人たちにも、自分の家に戻るように伝えてちょうだい。軍人さんの中には、短気な人もいれば、高圧的な人もいるんだから。おかしなとばっちりを受けたくなければ、彼らの目に触れないようになさい」
「うん……わかったよ。姉ちゃんも、気をつけてね」
トマスは渋々という感じだったが、頷いて了承した。
一部の軍人が民間人に対して横暴な振る舞いをするのは、子供である彼だってよく知っている、ということだ。時にはその理不尽さが、暴言や暴力という形をとる場合もある。年齢の割にしっかりしているから、トマスが野次馬たちを上手に説得して帰らせてくれるだろう。
「じゃあね」
私はトマスにもう一度微笑みかけると、きゅっと唇と気持ちを引き締め、自分の家の門を開けて玄関へと向かった。
***
居間に入ると、軍服を着た二人の男性が、向かい合ってソファに腰かけていた。
一歩居間に足を踏み入れた瞬間に、ぴんと張り詰めた空気が、室内に充満しているのを感じた。これから何があるにしろ、それは決して喜ばしいものではないらしいということを、この時点で私ははっきりと悟った。
「シェリル、帰ったか」
まず、大柄な体格の父が私を見て立ち上がる。厳つい顔立ちが、今にも崩れそうに歪んでいた。
続いて、父の向かいに座っていた男性も立ち上がった。私からは背中しか見えなかった彼は、軍人らしいぴしりとしたまっすぐな姿勢で、顔と身体をこちらに向けると、軽く会釈をした。
二十代半ば過ぎくらいの、若い軍人だった。
焦げ茶色の頭髪はさっぱりと短く、一分の隙もなくきっちりと完璧に軍服を身に着けているあたり、生真面目そうな印象を受ける。
けれど、グレーの瞳は相対したものを射抜くように眼光鋭く、彼に対して向けられるものをすべて弾き返してしまいそうな硬さと、そして冷たさがあった。
「ウォーレン大佐のお嬢さんですね。私は国軍中尉、ノア・レイズです」
きびきびした口調で名乗られたので、私も出来るだけ丁寧に頭を下げて挨拶をした。
「はじめまして、レイズ中尉。シェリル・ウォーレンと申します。ようこそ、いらっしゃいました。留守にしておりまして、申し訳ありません。今、お茶をお出しいたします」
「いえ、お構いなく」
きびきびしすぎて、素っ気ないほどに愛想なく聞こえる声音でレイズ中尉はそう言って、片手を挙げた。
しかしそこから、「すぐ帰りますので」という台詞が続くことはなかった。彼は一旦口を噤み、父のほうへと視線を移した。
ずっと立ったまま、唇を曲げて私を見つめていた父が、唸るような太いため息を吐き出した。ドサッと身を投げ出すようにソファに再び腰を下ろす。
顔は赤く染まり、頭髪の薄くなった頭のてっぺんからは、湯気が噴き出しそうだった。火にかけられた鍋であったなら、もうとっくに沸騰して吹きこぼれ、白い煙を上げているくらいだ。
父は背中を丸めると、両手で自分の顔を覆った。
しばらくの重苦しい無言の間を置いて、
「……シェリル、すまん。私は、とんでもない過ちを犯した」
という、呻くような声が、指の間から漏れる。
それを聞いて、私は胸が潰れるような気持ちになった。
──やっぱり、何かがあったのだ。
「お父さん」
急いで父のもとへと駆け寄り、傍らで膝をついた。
「どうしたの、何があったの。事情を話してちょうだい」
そっと彼の腿に手を置くと、軍服を通して、細かな震えが伝わってきた。先の戦争では勇猛果敢な働きをして、敵の将軍にも恐れられるほどだったという父が、まるで幼子のように頼りなく、巨漢の身体を小さく縮めている。
「正確には」
レイズ中尉が、自分もソファに腰を下ろし、声を出した。こちらはまったく憎たらしいほどに冷静だ。
彼は、そちらを向いた私と目を合わせると、父の隣に座るようにと手で促した。
「ウォーレン大佐が何かの失策または失態を犯した、というわけではありません。あれは不幸な偶然だったのです。大佐にとっても、我々にとっても」
「我々……と、おっしゃいますと」
私は父の足に手を置いたまま、隣に座って問いかけた。父は私の顔を見られないというように、顔を両手で隠し、うな垂れている。
「詳細はお話しできません。貴女にとっても、聞かないほうがよろしい」
中尉は薄く笑んで、意味ありげなことを言った。
そういう顔をすると、この人はひどく冷酷に見える。父よりも小柄なのに、軍服に包まれた引き締まった体躯からは、目には見えない不穏な雰囲気が立ち昇っているようだった。
「単刀直入に申しますと、大佐は偶然から、とある重要機密を知ってしまわれたのです。決して大佐のほうから首を突っ込まれたわけではない。しかし、知られたからには、我々のほうでも黙ってそれを見過ごすことは出来ない、ということです」
私は口を結び、向かいの中尉を見て、それから隣の父を見た。
階級から言えば父の下にいるはずの中尉には、遠慮するようなところも、臆するようなところもなかった。まるで、中尉のほうが大佐である父よりもずっと立場が上であるかのような落ち着きっぷりだ。
ということはきっと、中尉の口にする「我々」の中には、父よりも上の人間がいる、ということなのだろう。
命令ひとつで父などどうにでも出来るほどの、かなり上層部に属する誰か。その誰かが背後にいるからこそ、中尉はここまで堂々とした態度を崩さない。
──軍の上層部が関わる重要機密。
軍部内で、なんらかの陰謀が動きはじめている、ということか。
「どうやら、話の早い方のようだ」
私が黙ってそんなことを考えていると、中尉は目を細めた。
「大佐は不運にも、そこに巻き込まれてしまった立場にある。が、シェリル嬢はご存知だと思うが、ウォーレン大佐は自分にも他人にも厳しい、一言で言うと融通の利かないお方だ。知られたからといって、すぐに味方に引き入れるのも容易ではない。正直、我々にとって、大佐は邪魔にしかならない存在なのです」
私は父の二の腕のあたりを掴み、ぎゅっと握りしめた。
娘の私から見ても、父は頑固で強情な面がある。器用に立ち回ることも上手ではない。どのような内容であれ、その重要機密というものが父にとって「正しくない」と思えるようなものであれば、相手がたとえ自分の上官であっても、口を拭って知らんぷりを決め込むのは困難だろう。
もしもそんな父が、上層部から邪魔者だと見なされたら、どうなるか。
隣国との戦争が一応の終結を迎えたものの、この国の政治情勢は未だ安定していない。軍内部でも、過激派と穏健派、そして家柄を重視する派閥と、能力を重視する派閥に分かれて反目し合い、水面下で争いが続いていると聞いた。
その争いの中で、いつの間にかひっそりと消えていった人たちもいる。父もそうなるのかと思うと、背中がひやりとした。
良くて左遷、悪くて……
「しかし、部下からの信望が厚く、先の戦争で名を上げたウォーレン大佐を、あっさり排除してしまうわけにもいきません」
血の気のなくなった私を見て、中尉は唇をわずかに上げた。
「そのようなことをすると、逆に注目を浴びてしまうかもしれないのでね。新聞に取り上げられでもしたら、大いに困る。我々にとって、今は非常に大事な時期だ。ほんの少しでも騒ぎになってしまうのは避けたい」
というわけで──と続けて、中尉はおもむろに正面から顔を向けた。
隣の父のほうは、彼とは対照的にますます顔を下に向ける。そのうち、床にめり込んでしまいそうだった。
中尉は私と目を合わせ、静かに口を開いた。
「貴女に、こちらの人質になっていただきたいのです」
「……は?」
私はぽかんとして問い返した。
「人質?」
「そう」
「というと……私がどこかの牢にでも入っていればいいのですか?」
「いや、そこまでは。まあ……貴女にとっては、同じようなことかもしれないが」
「は?」
「なにしろ、大佐が奥様を亡くしてから、一人娘を溺愛されているというのは軍でも評判だ。その娘をこちらの監視下に置けば、大佐も下手な真似はなさらない。そうでしょう? 我々は、とにかく大佐に少しの間だけ、自発的に目を閉じて、口を塞いでおいていただきたいのです」
とりあえず、今すぐここで父が消されてしまうということはなさそうだと、私はようやく全身の力を抜いた。実を言えば、今にも目の前の中尉が腰の銃を抜くのではないかと、さっきから生きた心地がしなかった。
「私を監視下に置く?」
「そう。それも、可能な限り、周りに不信感を抱かせない形で。貴女にとっては到底納得のいくものではないと思うが、こちらもこれがギリギリ譲歩できる線だということを承知してもらいたい」
「というと?」
少しじれったくなって、私は話を促した。どうも、全体像が見えてこない。
中尉は一拍ほどの無言を置いてから、「──つまり」と口を開いた。
「貴女に、私の妻になっていただきたい」
一瞬、聞き間違えたと思った。
「つま?」
「そう」
「夫と妻の、あの妻ですか」
「そう」
「私に、あなたと結婚しろと?」
「そう」
「私たち、夫婦になるのですか?」
「だから、そう言っている。何度も繰り返さないでくれないか」
中尉が少し耳を赤くして、ぞんざいな口調で投げ捨てるように言った。
その時だけ、今まで被っていた冷血で動じない仮面がぽろりと外れて、彼の素の部分が覗いたような気がした。
「もちろん、そんなものは他の人間を欺くための形式に過ぎない。貴女をこちら側に取り込むことで、大佐にはしばらくの間、大人しくしていただく。縁者となれば、私が近くにいる名目も立つことだしね。これから我々は、大佐の一挙手一投足に目を光らせておかなければいけない。大佐が何か余計な行動を起こすようなことがあれば、貴女の身の安全は保障できない、ということだ」
彼の口ぶりはすでに決定事項を伝えるそれだった。私にも父にも、断る権利は与えられていない。
唯一残った選択肢が、二人とも口を封じられる、というものでなかっただけ、幸運であったと思うべきだ。
「では」
私はまっすぐ中尉を見返した。
「……私があなたと結婚すれば、父の安全は保障していただけるのですね?」
「今のところは」
中尉は慎重な言い方をした。今後を含めての約束はできない、ということか。しかしその答えでも、私は幾分かほっとした。
「シェリル……すまない。私が迂闊であったばかりに、おまえに、このような……」
ようやく父が覆っていた手を離して、私のほうを向いた。
知らない人からだと、冬眠から覚めたばかりの空腹で狂暴になった熊にしか見えないらしい父の顔が、今にも泣きそうになってくしゃくしゃだ。
私は父の両手を取って、にっこりした。
「いいの、気にしないで、お父さん。お父さんが無事でいてくれるなら、こんなこと、なんでもないわ。私のことは心配しないでいいの。お父さん、私がいなくても、ちゃんと食事はしてね。甘いものとお酒ばかりじゃだめよ」
「シェリル……!」
堪えきれなくなったのか、父は本当に泣き出した。ボロボロと大粒の涙を零し、オンオンと声を上げて号泣する父を見るのははじめてなのか、中尉は石になったように固まって唖然としていた。
「レイズ中尉!」
父はその泣き顔のまま、くるりと中尉のほうに向き直った。
涙を流しながら両眉を吊り上げ、憤怒の表情になった父は、異様に迫力がある。中尉は引きつった表情で「は」と背筋をぴんと伸ばし、若干、ソファの上を後ずさった。
父が拳を強く握りしめる。私は見たことがないが、父はその昔、素手で岩を砕いたこともあるという。歯軋りをして目の前の人物を睨みつける巨体からは、本気の殺気が漲っていた。
「なんとしても、約束は守れよ、若造……! もしも違えたら、その首ねじ切ってやるから、覚悟しておけ!」
一喝されて、中尉は少し青ざめた顔で立ち上がり、
「……承知しました、ウォーレン大佐」
と右手を側頭部に添えて敬礼をした。
***
そのような事情で、私とレイズ中尉の結婚式が、非常に慌ただしく執り行われることになった。
なにしろ準備をする時間がなかったので、ウェディングドレスもヴェールも指輪もない。中尉は軍服、私はせいぜいよそゆきの白いドレスを身に着けるのが精いっぱいだ。
教会の後ろの長椅子に座っているのは父一人だけで、しかもずっと嗚咽を漏らしている。いっそ黒ネクタイの喪服のほうがこの場には似合っていたかもしれない。
寂れた小さな教会の神父は、ひどく若くて慣れておらず、ぶかぶかの帽子が半分顔を覆っているような有様で、進行もぎこちなく、ところどころで台詞を間違えたり、言葉に詰まってどもったりしていた。
ブーケの花も、招待客も、誰からの祝福の言葉もない。
誓いのキスなんてものも、もちろんあるはずがない。
そもそも中尉は、式の間、ほとんど私を見ようともしなかった。
「…………」
私は小さくため息を落とした。
もう二十四なのだから、いずれこういうことがあるかもしれないとは思っていた。友人たちが挙げる結婚式を見て、いろいろと空想し、思い描くものもあった。
けれど現実は、ずいぶんと考えていたのとは違う。
もしも亡き母がこの場にいたら、父と同じように嘆き悲しんでいたのだろうか。
だとしたら、あの優しいばかりの母が、涙に暮れるところを見ずに済んでよかったと、その点だけは安心した。
***
式を挙げたその足で、私は中尉に連れられ新居に赴いた。
新居も何も、要するに、中尉の住むアパートの二階の部屋に私が転がり込む、というだけの話だ。私の荷物は着替えと多少の身の回り品くらい。人質なのだから、それだけでもありがたいと考えねばなるまい。
「ここが俺の家だが……」
軍服姿のままの中尉は、ドアの鍵穴に鍵を差し込んで回しながら、ちょっと口ごもった。普段の彼の一人称は、「俺」であるらしい。
「あまり驚かないように……いや、たぶん、驚くと思うんだが」
そんなことを言われると、かえってドキドキしてしまう。ただでさえ私は、若い男性の一人暮らしの家の中に足を踏み入れたことなどない。考えてみたら、その第一歩目が、これから自分の住まいにもなる場所のわけである。いろいろ順序がおかしい。
「まあ、どうぞ」
そう言って開かれた扉の向こうを見て、私は茫然と立ち竦んだ。
目の前の衝撃の光景に、鬼が出るか蛇が出るか、という不安と恐れが一瞬で吹っ飛んだ。
「構わないから、上がってくれ」
「……上がるって、上がる場所がそもそも存在しないんですけど」
汚すぎて。
どうにか、私はその言葉を呑み込んだ。
室内は、まるで盗賊団が入ってきて暴れ回ったかのような惨状を呈していた。
床のそこら中に物が散乱し、棚の上やテーブルの上には本が積み上げられている。ソファには洋服の山、流しには洗っていない皿が堆積し、しかも適当に開けられたままの多数の箱が部屋の結構な面積を占領していて、まさに足の踏み場もない。
中尉はわざとらしく咳払いをした。
「実は、このアパートには引っ越してきたばかりで」
「いつですか」
「一年ほど前」
「相当前ですね」
一年もあったなら、室内を整理するくらいの時間はあったはず。ずけずけと言ってやると、中尉は少々バツが悪そうに頭を掻いた。
「仕事が忙しいと、荷物を全部出して片付ける気にもならないんでね。それで必要なものだけを箱から取り出して生活しているうちに、こういうことになった。君が来る前に、少しはマシな状態にしようと思ったんだが……」
思ったが出来なかった、のか、思っただけで諦めた、のか定かではないが、とにかく中尉はその努力を途中で放棄することにしたらしい。これが「マシな状態」だとしたら、以前はどれほどだったのか、想像するだけでも怖い。中途半端に片付けようとして、より酷いことになったと思えば、まだ納得はいく。理解はできないが。
ピシッとした軍服姿からは想像できなかったが、どうやら中尉はかなりズボラな性格であるようだ。
生真面目なところはあっても、それは必ずしも几帳面と同義というわけではない、ということか。
「とにかく、寝室くらいはまだ見られるようになっているから、そこで休むといい」
そう言ってから、中尉は思い出したように私を見て、
「心配しなくとも、俺は居間のソファで寝る。君は大事な人質だ、手出しはしないさ」
と、付け足した。
その言葉は私を安心させるというより、だから勘違いはするなよ、と釘を刺されているように聞こえた。
結婚式を挙げたとはいえ、私たちは夫婦でもなければ、友人同士でもない。
私は人質で、彼は監視人。
「食べ物は冷蔵庫に入っているはずだから、適当に一人で済ませてくれ。それから、一応この部屋には電話があるが」
彼が指で示すほうに目を向けると、確かに、黒い電話機が壁に据え付けられてあった。
「……内容は必ず誰かに聞かれていると思ったほうがいい。俺がそばにいても、いなくても、君の言動は常にこちらに筒抜けだ。くれぐれも言うが、下手な真似をすると、君だけでなく父上も危ない」
「わかりました」
中尉の低い声に、足元からじわじわと冷たいものが這い上がってくるような気分を覚えながら、私は大人しく返事をした。
「私は、ずっとこの部屋の中にいなくてはいけないのですか?」
「いや、近くで買い物をするくらいなら別に構わない。君は女性だ、足りないものもいろいろとあるだろうし……ただ、どこに行くか、何を買うか、誰とどんなことを話しているか、というのは把握させてもらうことになるね」
「そうですか」
外に出ても、何者かの見張りがつく、ということだ。それでは、ほとんど牢の中の囚人と変わらない。
「俺はこれから出かける。いつ帰るかも判らないから、俺のことは気にしなくていい。扉にも窓にも鍵をかけて、ゆっくりしていてくれ」
私は目を瞬いた。
「私をここに一人で放っておいて、いいんですか?」
「構わない。好きなだけ、家探しでもするといいさ」
中尉はにやりと笑った。
「どうせ、どこをどうひっくり返しても、何も出て来やしないからな。軍の情報や、俺の弱味を掴もうなんて考えても無駄だよ。せいぜい見つけられるのは、埃の塊や虫の死骸くらいだ」
「わかりました」
ふう、と私は息をつきながら、同じような返事を繰り返した。
中尉は私の顔を見て、さらに何かを言いかけたようだったが、結局その言葉は彼の口から出ることはなかった。微妙なあれこれを含んだような沈黙を挟んでから、くるりと背中を向ける。
「いってらっしゃい、中尉」
私のその言葉には返事をせず、彼はそのまま外へと出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
遠ざかっていく軍靴の足音が完全に聞こえなくなってから、私はもう一度、大きな息を吐き出した。
「──さて」
普段着に着替えて、ぎゅっと腕まくりをする。
それから私は猛然と、部屋の片付けに取り掛かった。
私にだって、我慢できることと、できないことがあるのだ。