雑穀煎餅:好評
こちらは旧章となっております。
お手数ですが新規の方はRT1の章から入っていただけると幸いです。
…▽…
西暦1895年(明治28年)5月15日
商店の前には子供たちが列を成して並んでいた。
みんなの目当ては私が考案、販売している雑穀煎餅を買いに来ているのだ。
父親の許可を取って販売してから二週間あまりで、商店の主力商品となってしまった。
いや、私自身…ここまで一気に口コミが広がるとは思ってもいなかった。
売り出した初日は、雑穀煎餅を店頭に出してみたのだが、客は見向きもしなかったのだ。
理由は簡単、商店の客層の殆どは大人であり、煎餅には興味が無いのだ。
勧めてはみたものの、皆首を横に振るだけであった。
初日とはいえ失敗したかなぁ…と落ち込んでいた際に、商店に立ち寄った赤子を背負った女の子がやってきた。
その女の子は、お世辞にも綺麗とは言えないようなボロ布を纏ったような子供であり、一目で貧困層の子供だと直感した。
そして一銭銅貨を握りしめて「お煎餅を売って貰えますか?」と尋ねてきた。
きっとお腹を空かしているのだろう。
私は女の子に、兄弟は何人いるかと尋ねると、5人いると言ってきた。
なので私は雑穀煎餅を6枚、包み袋に入れて女の子に渡したのだ。
本来であれば、それは褒められた行為ではない。
金の無い客を甘やかすと、その甘い蜜に味を占めて物乞いのように何度でもくるかもしれないぞ…と馬鹿一郎に怒られるかもしれない。
だけど、私はこの女の子がどことなく従兄弟の娘に似ているように見えた。
もし、今煎餅一枚を買おうとしている女の子が、その一枚の煎餅をボロボロにして兄弟でチビチビと分けて食べるのを想像してしまうと…つらく感じる。
「それは初めて雑穀煎餅を買ってくれた君への記念のオマケだよ、兄弟皆で仲良く食べなさい。お代は全部まとめて1銭でいいよ」
「あ…ありがとうございます…」
女の子は包み袋を持って何度も頭を下げて商店を去っていった。
それから2時間後、店番をしていると商店に元気一杯の子供たちが煎餅を買いに来店してきた、それも大勢で。
買いに来たのは20人ぐらいの子供たち…丁度学校の授業を終えた後のようだ。
皆1銭硬貨を握りしめて煎餅を食べに来たと言っている。
聞けば、全員が女の子が住んでいる長屋で暮らしている子供たちで、女の子が子供たちに美味しい煎餅を売っている店があると教えたらしく、それを聞きつけてやってきたとの事だ。
噂は連鎖反応を起こして、それから1時間もしないうちに長屋周辺の子供たちまでがやってきて、次々と煎餅を買ってしまい、あれよあれよという間に煎餅が売り切れてしまった。
用意していた100枚の雑穀煎餅が無くなったのを目の当たりにして、子供たちの心を掴んだのだと私はこの時直感で判断した。
買えなかった子供たちに、明日は多く用意するよと言って、雑穀煎餅の増産を決めた。
骨董屋で油を売っていた父親に、雑穀煎餅が全部売り切れたと報告すると目の色を変えて、よくやったと感嘆した様子で私を褒めてくれた。
雑穀煎餅の売上金のうち、材料費と父親に払う場所代を差し引いても40銭の収入を得ることが出来た。
1時間で殆ど売り切れたので実質的な時給は40銭…物の価値にもよりけりだが、現代の価値でいえば約8000円ぐらいだろう。
父親の承認を得られたので、その日から私は呑んだくれの馬鹿一郎をこき使って雑穀煎餅を必死に作った。
焼ける時間や鉄板による雑穀煎餅の生産能力なども考えて、土日を除く平日は帰宅時間帯に売れ行きが多くなるので、100枚から200枚に増やしても直ぐに売り切れる。
200枚から300枚にしてもまた売り切れ、そして今では朝6時からお昼までに400枚の煎餅を作り、子供たちに煎餅を振る舞っているのだ。
「豊ちゃん!雑穀煎餅1枚頂戴!!!」
「僕にも!!!」
「私にもお願い!!!」
「はいはい、みんな一列に並んでねー、煎餅は逃げないよー!1銭をこの穴に入れたら一枚買えるからね!!」
いつの間にか私の名前である豊一郎の豊の字を取って「とよ」ちゃんと呼ばれるようになった。
この何の変哲もなく面白味すら無かった阿南商店の主力商品として、雑穀煎餅は皆から好評だ。
雑穀本来の香りや、仕上げの塩などの素朴な味付けが功を奏しているのだろう、子供に混じって大人の姿も見える。
雑穀煎餅は今、横浜の一角でムーブメントを起こしつつあった…。