対馬動乱:ざわめき
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西暦1900年(明治33年)1月2日午前2時 対馬
新年を祝うために日本各地では多くの商店や工場などが休日となっている。
ここ、対馬でもそうしたお祝いの祝賀会がささやかに行われていた。
だが、そんな祝賀会はもうすぐ強制的に終わろうとしていた。
終わりの合図…そして、その合図は世界に激震を揺らす大規模な起爆剤となる。
まず一隻の黒塗りの木造船が沿岸部に到着した。
木造船が黒塗りで塗装されているのは海上で発見されないようにするためだ。
元々ある政府が密漁を行うために船を黒塗りに塗って日本海近海において荒稼ぎしていた船の一つだ。
この船の正式名称は特に定められていないが、あえて現代で例えるなら「工作船」という言葉が正しいだろう。
上陸に成功した工作船からランプで一瞬光を放つ、それを合図に別の工作船が上陸を開始する。
1隻や2隻だけでなく、数十隻もの工作船がぞろぞろと対馬北部に揚陸していく。
漁村地帯から少し離れた場所に揚陸した彼らは船から降りて島に潜入していった。
そう、工作船に乗船していたのは大韓帝国とロシア帝国の混成工作員達だ。
混成工作員達はベルギーで生産されたばかりのM1900拳銃やイタリアで生産されたカルカノM1891ライフル銃で武装しており、彼らの殆どはある人物の暗殺を政府直々に依頼されていたのだ。
その人物は大韓帝国政府にとって邪魔な存在であり、またロシア帝国政府にとっても邪魔な存在であった。対馬金刃陰陽神社に匿ってもらっている元大韓帝国政府内部の親日派で知識人である李・明文の暗殺であった。
李は日本との同盟を結んで清国から独立しようとしていた元開化派の知識人であったが、甲申政変に失敗した開化派の殆どが粛清される事態となる。
しかし、李は仲間を売って積極的自白を行ったことで死刑を回避し重罪を着せられることなく、その知識を生かして大韓帝国内部で役職を得ることができた。
そこで彼は親露派に属しながらも大韓帝国の未来を見据えて日本の諜報機関とのつながりを持ち、密かに日本との同盟関係を模索していたのだ。
だが、その最中に半島北部からロシア帝国軍が治安維持目的で侵攻してきたのを機に、漢城府内部で親日派の徹底的な弾圧が開始された。
王族や政府の役職者たちも次々と当局に拘束ないし令状がないまま罪をでっち上げられて銃殺刑を執行された者も多い。
李は当局の目をすり抜けながら解決の糸口を探っていたが、自身が当局に狙われていると感じ取り、1899年12月29日に李は命からがら大韓帝国政府とロシア帝国に関する重要書類などを持ち出して釜山港から脱出したのだ。
しかし、李の乗った船は対馬沖5キロの所で波に攫われて転覆し、その際に大韓帝国政府内部の重要書類や自身の身元を示す重要な身分証明書まで流されてしまった。
必死に泳いで対馬にたどり着いて海岸で倒れていた際に地元住民に助けられて、この神社で匿ってもらえたのである。
自分の身元が地元住民に知れ渡ると刺客に襲われる可能性もあったので、自分の名前を偽名である「金」として対馬から佐世保を経由して東京に向かうはずであった。
しかし海が荒れていたので渡航できず、新年が明けてからでないと本土に行けないので神社で世話になっていた、李が生きており対馬にいるという情報を入手した大韓帝国はロシア帝国と協力してこの対馬に上陸し、李を抹殺するべく刺客を仕向けたのである。
そして、彼を暗殺するにあたって大規模な災害によって死亡したように偽装しなければならないのだ。




