阿南家:自動車が全然普及していない
私は下駄を履いて上機嫌で家を出た。
80年代のJ-POPミュージックを口ずさみながら横浜の街中を歩いていく。
横浜は国際交流が豊かな街の一つだ。
日米修好通商条約によって海外との貿易を担う国際拠点港湾に発展したことにより、横浜は明治時代になってから急成長し日本の貿易を支えてきた。
それは202X年からやってきた私の時代でも変わらない。
ベイブリッジや横浜ランドマークタワー、それらと背伸びを競うように建設が進められている高層ビル群、とあるレースゲームでは横浜市が舞台となって車を走り回すシーンもあったが…。
まだまだ19世紀末では自動車はそうそうお目にかかる機会はない。
目の前を走っている乗り物は馬車か人力車ばかりだ。
昔、社員旅行で愛知県豊田市の自動車博物館で見学した際に解説を受けたことがある。
それによれば既に欧米では自動車そのものは発明されているが、まだまだ開発途中の段階である黎明期であり、この頃の自動車は馬車と性能がどっこいどっこいの代物だった。
20世紀初頭にアメリカのフォード社によって開発されたモデルT型が流行するようになってから車が身近なモノになっていく。
日本だと自動車が一般大衆に普及するようになったのは1960年代の高度経済成長期であり、戦前に自動車を所有できるのは議員や企業の幹部クラスでないと持てない程高価な乗り物だった。
うむ、私が会社を起業して廉価モデルの車を売り出すというのも悪くない。
上手く売りだせば、私の苗字である阿南を社名に取り付けた「ANAN自動車」として国内のシェアを牛耳ることも出来る可能性もある。
しかし日本は都市部を除いて、凸凹した地面だから揺れが起こりやすい、しかも高低差も大きいのでそれに耐えることが出来る車を作らないといけない。
いやはや、生憎車の構造に関してはそこまで詳しくないので車を作るのは難しそうだ。
あとテレビ番組で知ったことだが…。
日本が世界でも有数の優良な自動車を多く製造・保有するまでには幾つもの苦難があった。
その代表的な例として日本の国産車が世界競争に本格的に参入するのは1970年代に入ってからだ。
60年代までは国産車は世界では二流車扱いされており、馬力が無い、走るとブレーキの効きが悪くなる、日本車の総合評価=クソ雑魚ナメクジ等…散々な言われようであった。
何かと日本のインターネット掲示板やSNSで不具合や性能不足が茶化されたりする韓国車のような扱いをされてきたわけだ。
とはいえ、近年に入ってからは韓国車もアメリカや欧州では徐々に売れだしていき、現在では世界中で走っている新車のうち、12台に1台は韓国車である。
日本での知名度が低いが、私が明治時代にやってくる前には世界のブランド市場では力をつけてきていたので、今後日本の自動車メーカーとの世界での競争が激化していったのは間違いないだろう。
話が逸れてしまったな…とにかく60年代までの日本車というのは評価はあまり芳しくなったというわけだ。
それを覆したのが1969年11月に(※1)日産自動車(※1 北米ではダットサンと呼ばれていた)が世界に通用する量産型スポーツカー「フェアレディZ」を世に送り出してから流れが変わった。
動画投稿サイトなら、今ここで音楽が変わっているだろう。
この車が発売されてから日本車が世界に通用するスポーツカーを作る実力を持っていると世界に知らしめることになり、日本車は二流車ではないと徐々に認められていき、フェアレディZは世界一売れたスポーツカーとしてその座に君臨している車になるのだ。
とはいえ…この時代にフェアレディZを作れと言われても無理な話な上に、20世紀初頭で国内で通用する車を作るとしても資本金や支援者などを集わないと企画書を出しても誰も信用しないだろう。
さらに最低車を作るとしたら、国内の道路情報に耐えれる頑丈な車である上に、車に関する知識を持っている技術者を雇い、何かしら事業を成功させてからでないと無理だな。
うむむ、あまり気難しいことばかり考えていると病んでしまうから車の話はここまでにしておこう。
まだ午前10時ぐらいなので昼食を取るにはちょっとばかし早い。
他の店の様子を見てみるのも悪くない、先ずは他の雑貨店にでも顔を出してどんなものが売られているのか見てみようと思う。
私はふらりと立ち止まった先にある台所用品を専門的に扱っているお店に、足を踏み入れることにした。
参考文献:コミック版 運命のZ計画 フェアレディZ 世界一売れたスポーツカー伝説(2003)
発行所:株式会社宙出版
原作・監修 NHKプロジェクトX製作班
作画・脚本 横山アキラ
個人的な意見になりますが、1990年代の日産は素晴らしい車を沢山作っていたので、もうそろそろシルビアの後継車を出してほしいと願っています(86、BRZ、スイスポに次ぐ感じのやつを…)