成長戦略:北京事変
では、そろそろ戦記モノとして物語を大きく動かしますぞ~
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西暦1898年(明治31年)7月15日
歴史の授業で習った歴史の大まかな流れがここにきて、大幅に修正を余儀なくされる事になるとは…。
今朝の新聞に一大ニュースが飛び込んできたのだ。
”清国首都で政変、紫禁城燃えゆ、現地は大混乱に”
清国の首都「北京」にて政変…つまりクーデターが発生した。
いや、正確に言えば内戦が勃発したのだ…西洋諸国の近代的な統治機構を模範とした明治維新によって日本が急速な拡大と成長を目の当たりにした清国の革新派の武官や高官は、古い旧体制を維持したままでの近代化は望めないことを認識し、この事を清国皇帝「光緒帝」に訴えた。
光緒帝はこのことを痛烈に感じており、位の高い役人の中でも体制の抜本的見直しを図り、イギリスや日本の憲法や政治機構を学ばせた者たちを集めて、大規模な体制の変化を皇帝自身が望んだ。
現に、日本は明治維新から僅か30年にも満たない間に清国を倒すほどの軍事力を有する国家へと変貌していたのだ、決して運ではなく兵器の熟練度や運用のノウハウが清国よりも遥かに鍛錬されており、また日本国内の生産能力が大きく上昇していたことも、光緒帝は資料を見て知る事になる。
その結果、皇帝自ら「戊戌維新」と呼ばる政治改革案を発表し、3年以内に必ず実行に移すことを清国全土に布告した。
この布告は日本の急速な発展を遂げた明治維新を見習って清国の国力を使って大規模な政治改革を行おうとしたのだ。
いわば、政府内部において反対する者の血を流してでも清国の再興を行うと光緒帝は決断したのだ。
しかし、この布告これに反対した保守派の高官や、彼らから支援を受けて設立された排外主義思想の武装組織「仁義会」は光緒帝の叔母にあたる「西太后」に対して「光緒帝は清国を日英に売り渡して経済支援を受けて見かけだけの改革を行い、西太后の政治基盤を陥れようとしている」と唆したのだ。
西太后は当初は戊戌維新のお手並みを拝見するために見守ろうとしていたが、光緒帝の戊戌維新には西太后の権力縮小や明治維新に倣って各地方から議員を輩出して議会を作り上げる事と、イギリスの議会政治を参考にして皇帝の意見や政策が適正がどうか判断する政治諮問機関設置の導入も含まれていたこと知ると立腹し、西太后は自身に忠実な家臣と武装組織「仁義会」に対して光緒帝の身柄の確保と維新運動に賛同している政府高官や側近たちの逮捕を命じた。
7月13日に戦闘が勃発した。
当時、戊戌維新に反対していた保守派の高官らが集まって紫禁城内で堂々と光緒帝の政策の批難を行い、光緒帝は政治運営に欠けており、このままでは政変が起きかねないから西太后に権力を引き渡すように紫禁城内を警備している近衛兵である禁旅八旗に西太后自ら記した書面を突き付けて光緒帝の身柄引き渡しを命じたのだ。
だが、光緒帝の大規模な改革を支持していた禁旅八旗は身柄の引き渡しを拒否し、そこに武装した仁義会が紫禁城内に突入、城内で交戦状態になったという。
激しい戦闘の末、武器の練度で勝る仁義会が紫禁城を制圧したらしい。
7月15日現在、西太后らが北京を掌握し光緒帝の廃位を決定したという。
だが、北京市内では光緒帝を支持する民衆と仁義会が衝突し、各所で火の手が上がっているという情報も入ってきている。
新聞ではあまり詳しくは伝えられていないが、既に范さんなどが国内にいる青龍族の支援者や、電信によって上海から長崎を経由して東京に入ってきた精度の高い情報によれば、光緒帝は北京を脱出して天津を経由して海軍の軍艦に乗艦して現在上海に向けて移動中であり、光緒帝を支持している袁世凱の元、上海で臨時政府を樹立させて国際社会から支援をしてもらうべく、行動を開始しているとのことだ。
いや、ここにきて世界の歴史が大きく変わってきたか……史実では戊戌の政変となって改革が失敗して義和団事件へとつながるのだが、この世界では西太后や仁義会による武力クーデターによって政権が転覆されるとは…北京を初めとする大都市や南京、広州では西太后の復権を認めるという意見が多数を占めており、光緒帝の戊戌維新に賛同している上海一帯の地域が唯一の頼みの綱のようだ。
これで日本政府や欧米諸国の動きが活発になるだろう、場合によっては国際貿易都市である上海の利権確保の為にイギリスや日本が軍を派遣して光緒帝を擁護することも考えられる。
変則商社としても、蒼龍や范さんなどは光緒帝の掲げた戊戌維新を支持しており、今後中国大陸への拠点を置くためにも古い体制を脱して新しい近代的な体制を行おうと努力している光緒帝への支援をするべきかもしれない。
歴史の歯車は私の知っているものではなくなり、未知の部分へと変化していっているのであった…。
諜報部より報告
”清国の異変”
清国に潜入している諜報員からの連絡によると
”戊戌維新”
の決定に対して西太后による
”北京事変”
が発生した模様です。




