成長戦略:国際事業着手
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西暦1898年(明治31年)6月28日
最初の変則商社の食品工場が建設されてから丸二年が経過した。
現在、変則商社の規模は国内でも有数の巨大企業に急成長を遂げた。
その理由は、脚気対策で売り出した雑穀煎餅、保存食として売り出したインスタントラーメンの発売によって国内のみならず、イギリスを中心とする欧米諸国への輸出が始まったからだ。
1896年の8月中旬に日本と関係強化を模索していたイギリスの外交官と偶然パーティーでお会いした際に、駐日英国大使のアーネスト・サトウ氏との面談において、英国にインスタントラーメンを輸出してはどうかとアドバイスを貰ったのだ。
イギリスとの友好関係構築は重要であるし、列強諸国の中でも世界最大の海軍を有している国家だ。
ロイヤルネイビーの名はその強大な軍事力によってイギリスは支えられている。
1896年7月頃から、清国内部では蒼龍を追い出した仁義会を中心とする反英米思想が広く浸透してきており、イギリスのアジア中継貿易拠点の要であった租借地「香港」でもこうした動きが活発化してきており、イギリスとしては何時でも清国を叩けるように軍備増強を行う必要が出てきた。
さらに、仁義会はロシアやドイツといったイギリスの仮想敵国から近代武器を輸入し、ライセンス生産を行っているらしく、イギリスではこれらの武装組織を脅威であると認識した。
万が一、香港が仁義会に占領された場合、アジア地域に展開しているイギリス軍だけでは対処できない可能性が生じてきた。
そこでイギリスは日本との同盟関係も模索しているようだ。
日本もイギリス製の機械製品を購入し、部品統一化に向けた動きが進みつつある。
その動きに便乗して、イギリスで機械の製造法などを学ぶために私は1896年10月に「英国留学事業」を立ち上げた。
勉学が堪能でなくても、学習する意欲を持っている若者をイギリスに送って、1年から3年かけて機械の作り方などを学ばせて機械知識を中心に、医学・食品・武器に関する技術を学ばせることを目的とした事業だ。
全国の学校や個人に至るまで500人ほど募集し、これらの留学事業に参加する生徒には一律で金を渡し、学校の授業料や留学時に掛かる金銭の全額免除、さらに給料も月に一人辺り30円出す方針を掲げて一定の学力と基礎英語の読み書きが出来ることを条件として年齢不問で募集した所、これまた工場の従業員募集に比べて数多くの人数が殺到し、結果的に600人が第一期英国留学事業に参加した。
また、その間にも国際貿易をするに当たって英語を話せる者や国際貿易に詳しい専門家を雇入れて、国外への事業を展開する決断を下した。
国際貿易をするにあたっては工場一つだけではとてもじゃないが、数が圧倒的に足りない。
そこで、一先ず資金を用意してから工場を3年間かけて大都市圏の近郊に10箇所建設することに決めたのだ。
まず1897年度までに千葉県東葛飾郡松戸、愛知県丹羽郡岩倉、大阪府泉南郡貝塚など都市部に近くて土地が安かった地域に新規工場を建設し、これらの工場は雑穀煎餅とインスタントラーメンの製造を担う主力工場となる。
1898年度は横須賀、舞鶴、呉に食品工場を建設する予定であり、現在横須賀の工場があと1か月で完成予定だ。工場の増設に伴い、売り上げも上がっている。
また、商品提携店舗も全国に展開し始めており、関東だけで200もの商店が変則商社の雑穀煎餅とインスタントラーメンを取り扱っている。
生産能力は半機械化されているので、一日の生産量はインスタントラーメンでは一つの工場で2万個が生産されている。雑穀煎餅は8万枚生産が可能だ。
現時点では変則商社全体で一日に8万個のインスタントラーメンが生産されているが、このうち英国への輸出用に5千個が輸出されている。
週に一度3万個ものインスタントラーメンを貨物船に乗せてイギリス本国へと運んでいるのだ。
インスタントラーメンは保存性に優れているので、船で輸出を行っても腐ったりすることは滅諦にない。
一度だけ、船員のミスで積荷に波が掛かってしまい、塩水で商品の一部がダメになってしまったことはあったが、それ以外では品質に問題は生じていない。
利益も十分に出せているので、これから先の収入面での心配は問題なさそうだ。
工場建設に掛かった費用も2年以内に返済可能となっている。




