雑穀煎餅:夢の中で
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西暦1895年(明治28年)5月20日
今日はこんな夢を見た。
明治時代に来る直前に見たあの竜…。
今日、約一か月ぶりに私の前に姿を現したのだ。
周囲には白い靄のようなものが立ち込めており、竜の姿だけが見える。
…と言っても相変わらず光を放っており、特に顔の部分には強い光が差し込んでおり、素顔は見せてくれない。
近くに行って顔を見ようとして歩いて行こうとしても、私が右足を一歩前に歩こうとすると向こうは一歩引いてしまう。
顔は見れやしない。
私を明治時代に同姓同名の人間に転生したのもこのドラゴンによって行われたのだろうか?
私は夢の中で竜に問いかけてみた。
「貴方が私を明治時代にタイムスリップさせたのか?」
「…。」
返事はない。
だが、私に対する強い視線が向けられているように感じる。
圧迫面接のような鋭い目線は見えないが、この竜に見られている…。
そんな感じがするのだ。
いや、面と向かっているのだろうからそれは正しいことなのだろう。
しかし顔が見えないというのは少々厄介なことだ。
対面できても話せないのが辛いがね。
少し話題を変えてみようか…それと、敬語で話そうか。
私がこの世界に来てから、自分の作った雑穀煎餅が売れており、自分自身にも自信が付き始めてきた事を話す。
「この世界にやってきて…私が作った雑穀煎餅がすごく売れているのです。相変わらず馬鹿…いえ、一郎とは仲は悪いですが、少なくとも誰かの役に立っているという、自分自身が望んでいたことが出来ているように感じるんです。近いうちにお金を貯めてから独り立ちしようと思ってはおりますが、今はまだ下準備を励んでいるつもりです」
「…。」
相変わらず返事はない。
返事はない代わりに、首を頷いているように見える。
「良かった」と思っているのかもしれない。
前世から明治時代に…過去にタイムスリップして完全に何をやってもうまくいかなかったら絶望していたかもしれないが、幸いにも横浜という人口の多い都市で、尚且つ家がそこそこ裕福な家庭だったこともあり、出だしのスタートラインは凄く恵まれているように感じる。
よくライトノベル小説や、インターネットの転生ファンタジー小説にありがちな”チート能力”というものには一切恵まれていない。
だが私が過去の積み重ねで学んだ食品研究に関する知識、歴史の授業で習った用語や単語…そして雑学程度が思い出と共に能力として引き継がれている。
既に私が雑穀煎餅という煎餅を世に送り出したことによって、私が未来に与える影響は凄まじいものになるかもしれない。
しかし…この竜がそういったリスクを承知で私に対してそういった”記憶に関する引継ぎ”をしてくれたのであれば、彼…もしくは彼女に対して一先ず感謝するべきだろう。
「もし、貴方が私をこの明治時代にタイムスリップさせてくれたのであれば、心から感謝いたします。私という存在がこれからこの時代でどのような効果をもたらすのかはまだ分かりませんが…私なりに道を進んでいきたいと思っております」
私は深く竜に対して頭を下げた。
頭を下げてから暫くして…次第に周囲の靄が溶けていくのを感じた。
視界が少しずつ晴れてくる、晴れてくると蝋燭が灯された何処かの密室にいるような場所に私は立っている。
私の立っている場所以外は全て木目調の床が黒く塗られている。
蝋燭の灯の下には黒い文字がびっしりと敷き詰められている。
その文字は竜を中心に円形で私の足元の一歩手前まで書き込まれている。
ローマ字ではない…古い漢字のような文字が床に敷き詰められている。
その文字の上に竜は佇んでいる。
もし、これが脱出ゲームやホラーゲームで登場したら恐怖の部屋という名前が付けられるかもしれない。
そして、突然竜は私に近づいてくる。
先程までは近づいても近づいても一歩、また一歩と離れて行ってしまった竜が、今度は逆にゆっくりと近づいてきたのだ。
そして私の顔のすぐ近くまで頭部を寄せると、何か香水のような甘い香りが漂い始める。
ラベンダーのような香りといえばいいのだろうか…夢の中だというのに、何故か匂いまで分かるのは凄いと思った。
匂いを嗅いだ途端に私の視界がゆっくりと雨に濡れてこぼれ落ちていくような雫となって落ちていく。
竜が手を振っている、「また今度ね」そう言っているのかもしれない。
視界が真っ暗になり、体感時間で20秒程して私は夢から覚めたのであった。




