両断作戦:極秘会談
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西暦1903年(明治36年)7月25日
「この度の毒ガス攻撃によって対馬だけで500名…同盟国の南中華帝国では市民の多くが犠牲になった。もし、帝都にこの手の攻撃が行われたらひとたまりもない………」
「いや、帝都は毒ガス攻撃されましたよ………今から92年後ですがね………」
山縣総理との極秘会談で、私はサリンが92年後の1995年に終末論を唱える狂信的な宗教団体によって東京の地下鉄で散布された事実を伝えていた。
あの時、前世の私は東京にある工場で研修を行いにホテルから地下鉄を乗り継いで行こうとしたが、丁度インフルエンザに掛かってしまい私は運よく難を逃れた。
だが、従兄弟の幼馴染はあのサリン事件の時に同じ車両に乗り合わせており、呼吸器系に障害が残ってしまい、介助が必要なほどに弱ってしまった。
あの悪魔のような毒ガスを90年以上先取りして、それもここまで大規模な軍事的作戦を伴って攻撃を起こしてくるとは思いもしなかった。
まだ毒ガスに関する国際条約が発効されていなかったこともあって、上清帝国、大韓帝国は敵国に対して軍民を問わず平等に殺傷する兵器を使用した。
被害状況の写真を見せてもらったが………目を背けたくなるような光景だった。
苦しかっただろう、辛かっただろう。
そんな想いが凄惨さと共に伝わってくる写真であった。
苦しんで喉を爪で引っ掻きまわし、そして息絶えた母親とそれを見て泣いている子供の写真は流石に心が痛む。
戦争にもルールはあるだろうに………。
「私の時は平時に………それも多くの人たちが出勤する時間帯が狙われて大勢の人々が被害に遭いました………負傷者の数は5千人以上とされていますが、それでも事件に使われたサリンには不純物の多い粗悪なサリンを使用したと言われています、もし数日遅れて完成した純度の高いサリンが使われていたら………死傷者数は数倍に膨れ上がったと言われています、さらに攻撃が行われた場所は汚染されているため、防護服を着て汚染除去作業をしなければならないでしょう………私自身、科学知識についてはあまり得意ではないので正確には言えませんが………最低でも水をかけた上で土壌を全部変えないといけないでしょう………」
対馬南部、中部で使われたサリンによって、今日までに700名以上の兵士や民間人が被害を受けた。
あれから航空機による上空からの空爆を繰り返し行って敵軍の行動範囲を狭めているが、依然として数百名が徹底抗戦を続けている。
南部の要塞から鹵獲した武器を使って抗戦しているものと思われるが、一時的に敵の手中に落ちた陸軍対馬司令部はサリンの汚染除去を行って奪還されている。
しかしながら対馬の中心部では敵軍はサリンの入った容器などを至る所に仕掛けているので、それらの罠を解除するのに戸惑っているところだ。
中には飲用水用の井戸の中にサリンが入っていた容器が見つかったこともあり、井戸の使用が禁止となって飲み水などを九州経由で運んでいる。
また、対馬で負傷した兵士たちは増援部隊と入れ替わる形で全国各所の軍病院に搬送されて治療を受けている。
早く回復してほしいが、負傷者のうち数十名は手足の痺れや呼吸器系の後遺症が既に出ている状態だ。
国内の新聞には包み隠さずに、被害状況を軍部が発表し、毒ガスがどれほどまでに非人道的な兵器であるかを説明すると同時に、南中華帝国の首都で起こった無差別攻撃に対処するべく、防毒マスクの製造を大急ぎで取り付けていたのであった。




