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私による近代日本改革記  作者: スカーレッドG
(旧)第一次世界大戦勃発
112/125

第一次世界大戦勃発:対馬防衛戦2

大韓帝国軍の精鋭部隊は連絡兵と会敵するまでに、遠見ノ壇山と丸隈山まで侵攻することが出来た。

このうち、連絡兵と会敵したのは厳原に向かう途中であった大韓帝国陸軍第109中隊所属の一個小隊であった。

夜遅くから明け方にかけて進撃を続けた結果、対馬の中心部近郊まで迫ったのだ。

その頃、対馬の守備を命じられていた日本陸軍第六師団歩兵第45連隊は遠原中佐以下2500名のうち、最も大韓帝国との要所となる北部に1800名を配備していた。

これは、釜山から最も近いという地理的な要因に基づいて建設された要塞が北部に集中していたこともあるが、3年前の対馬動乱の際に大韓帝国とロシア帝国のスパイによって引き起こされた要塞爆破事件の影響もあって、日本軍は北部の守備を固めており、南部のほうも要塞を幾つか建設したが人員配置が間に合っていなかったのだ。



これは、連隊でも後続の部隊が輸送される予定だった7月14日、日本軍が兵員輸送手配の為に博多湾に停泊していた輸送船「うぇいるず号」が兵士350名を乗せて出港した直後に突如船内火災が発生し、瞬く間に船全体に燃え広がって沈没するという事故が発生していたのだ。

船員や乗っていた陸軍兵士100名以上が船内火災によって死傷し、脱出のために海に飛び込んでそのまま溺れてしまい行方不明になった者は50名を越えた。

日本海軍の尽力した捜索活動により、200名以上が救出されたが依然として行方不明の者は100名を超えている。



この陸軍350名は本来であれば対馬の南部にある要塞に移動となる予定であったが、うぇいるず号火災沈没事故によって別の部隊から兵士の輸送手配をすることになり、22日に対馬に移動となる予定であった。

つまり、偶発的な事故によって南部の要塞に回す兵員が足りず、南部の防衛力は大きく減ってしまったのだ。

残りの700名のうち、対馬中心部に変則商社系列の建設会社によって建設された対馬司令部に200名、残りの500名が南部要塞ないし南部の巡回警備に割り当てられたのだが、このうち400名近くが既に突然侵攻し、襲い掛かってきた大韓帝国によって捕虜もしくは戦死状態となっている。



特に南部の守備隊からしてみれば寝耳に水であった。

真夜中に音も立てずに上陸を果たし、800名近い兵士が既に浸透していたとは思いもしなかった。

その証拠に、大平山に設置された「南部5番要塞」では日本軍の兵士60名が配備されていたが、その殆どは要塞内部に設置された休眠所で安眠をしていたのだ。

夜間の巡回当番の兵士と、定期報告の通信を担う通信兵の6名程度が起きていたが、巡回の兵士が背後から忍び寄った大韓帝国陸軍の斥候兵に首元を韓国刀で切られて死亡し、要塞入り口を見張っていた警備兵もフラッシュサプレッサーを使用したモシンナガンで腹部を狙撃され、その傷が元で20分後に大量出血死した。

そして要塞内部にいた通信兵も銃声に気が付いて慌てて武器を持とうとした時に、突入してきた大韓帝国陸軍の兵士たちに成すすべなく捕らえられて要塞内部は無力化されてしまったのであった。

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