第二百二章 北からの波紋 3.モルファン
「イラストリアからの返答が届いた。留学の件を承知するそうだ」
おぉ――という声が会議室に拡がる。ホッとしたような響きを持って。
「イラストリアが話を呑んでくれて助かった。今や彼の国との交誼を深めるのは、極めて優先度の高い案件になっているからな……色々な意味で」
「うむ、まずは順調な滑り出しだと言えよう」
さて、ここで少々モルファンの内部事情というものを説明しておこう。
実は……モルファンではここ数年というもの、イラストリアという国の存在感が弥増していたのである。
イラストリア自身は大国モルファンに対して警戒心を捨てきれないでいたが、モルファンの方ではイラストリアに対して含むところは無かった。寧ろ、交易や文化交流の面で重要な隣国と位置づけており、そのイラストリアに対する野心を隠そうともしないテオドラムを苦々しく思っていたくらいである。
ところがそんなイラストリアにおいて、一連の異変が出来したのが四年前。ノーランドの国境守備隊がモルファン領内の荒れ地で昏倒しているのが発見されたのが始まりである。
不審に思ったモルファンがイラストリアの様子に気を配っていると、ダンジョン絡みの異変とノンヒューム――当時は「亜人」と呼ばれていたが――絡みの事変が立て続けに発生し、挙げ句ノンヒュームたちがその勢力を糾合して、砂糖やビールの製造販売に乗り出すという、どこから見ても前代未聞の事態が出来する。
それに加えて、ノンヒュームたちが世に問うた砂糖菓子とビールというものが、余りにも魅力的に過ぎた。
実はモルファンも、嘗てイラストリアのノンヒュームたちの許へ密使を派遣して、ビールや砂糖菓子の購入を打診した事があった。しかしその時には、色好い返事は貰えなかったのだ。
ビールや砂糖菓子を対テオドラムのための戦略物資と見做していたノンヒュームにとって、それらはテオドラムを追い詰めるのに使用されるべきものであって、モルファンに廻すだけのゆとりは無かったのである。
その辺りの事情は解らなかったものの、何か事情があるのだろうとモルファンなりに察しを付け、第三国を経由するなどして細々と入手していたのだが……
「……もはやそれぐらいでは収まりが付きそうになかったからな……」
「うむ。耳聡い貴族どもに嗅ぎ付けられたのが好くなかった」
「砂糖菓子とビールだけならまだしも……」
「エッジアン風の草木染めにエルフの宝石細工ときて、挙げ句に古酒と幻の革だからな……」
大国モルファンの情報収集能力はずば抜けており、国民もしばしばその恩恵に与っているのだが……今回はそれが裏目に出た。
他の沿岸国やテオドラム、マーカスなどに先んじる形で、それらの逸品の情報が国内に流れたのである。
南の隣国イラストリアでは、庶民に至るまでそれらの逸品を享受できている――実際に入手できているのは一部の町だけなのだが――にも拘わらず、モルファンはそれを入手できていない。……甚だ面白くない事態である。
これが「イラストリア王国」の為せる事なら、国と国との話し合いでどうにかなったかもしれないが、生憎な事にそれらを主導しているのはノンヒュームであった。
また、不幸にしてモルファンという国は、そのノンヒュームの比率が高くない。別に差別しているとかではないのだが、気候のせいか植生のせいか、エルフや獣人たちの人口比が低いのである。畢竟、モルファン中枢部もノンヒュームたちとの間に有力な伝手を持たず、か細い手蔓を頼りにドランの村に派遣した密使も、ビールの輸入に失敗するという結末に終わっていたのである。尤も、ドランの村人は終始申し訳無さそうな態度であったし、事情が好転すれば取引するに吝かではないとの言質は取ってきたのだが。
悪い事にと言うべきなのか、ノンヒュームたちは――モルファンが欲して已まない――ビールや砂糖菓子を、テオドラムの影響力を落とすためだけに使っているらしい事が判明した。
言い換えると……〝いらん事しぃのテオドラムのせいで、ビールや砂糖菓子がモルファンにまで廻って来ないのだ〟――という雰囲気が、モルファン国内で醸成されていたのだ。ほとんど八つ当たりである。
「そこへもってきて、今回の〝サルベージ品騒動〟だからな……」
「あぁ、イラストリアとの友誼を結ぶ口実に使われた部分もあるな」
モルファンの見解としては、
〝このところの一連の動きからは、テオドラムが不利益を被っているのに対して、イラストリアが利益を受けているように見える〟
〝しかし……イラストリアが黒幕だとは思えんぞ?〟
〝うむ、どちらかというと、イラストリアは振り回されている側だろう〟
〝それなんだが……ダンジョンが絡んでいるためにややこしく見えるが、それを取り除いてみると話は単純にならんか? ノンヒュームたちの好意を獲得したイラストリアがその恩恵を享受し、ノンヒュームたちからの信頼を失ったテオドラムがババを引いている――という構図が見て取れるような……〟
〝うむ、成る程……〟
〝……となると……テオドラムがノンヒュームの勘気を被った理由が気になるが……〟
〝恐らくはアレだ。テオドラムがノンヒュームの奴隷に対して施した「処置」が、ノンヒュームたちに漏れたのではないか〟
〝うむ……ヤルタ教が何やら動いていたという報告もあったな〟
〝一方でイラストリアは、ノンヒュームの奴隷の値段が暴落した際に、大量に購入して解放している。ノンヒュームたちはその事を忘れていないという訳だ〟
――という背景分析の下、
「そういった事情を考慮しても、事態がイラストリアを中心に動いているのは事実だ」
「彼らとノンヒュームたちとの繋がりを含めて、彼の国の内情をより深く調べる必要がある……という主張が出て来る訳だ」
「王族の留学というのは、そのためには恰好の口実だろう。下調べのためとか何とか言い繕って、調査員を送り込む事もできる訳だしな」
「そして――一旦橋頭堡と交流を確保してしまえば、後は済し崩しに……」
「ノンヒュームたちとの繋がりを深め、あわよくばビールや砂糖菓子の入手に便宜を図ってもらう――か」
「少なくとも、それを夢みている貴族どもが多いのは事実だろうな」
――と、案外に世俗的な裏事情もあって、イラストリアに向けての王族の留学という重要事が決定されたのであった。




