第百九十七章 泥炭騒動 8.底抜け脱川騒ぎ
『……それで? 現状はどうなっている?』
疲れた声でクロウが問えば、
『取り敢えず浸水は抑えました。また、二度とこんな事が無いように、坑道の天井……と言いますか、川底は一応強化してあります』
やはり――ダンジョンコアの身でありながら――疲れたような声でケルが答えた。
『馬鹿どもが同じ過ちを繰り返す事だけは無いんだな?』
『はい。……尤も、連中が新奇な失敗を開発する可能性はゼロではありませんが……』
『地下火災に続いて、今度は坑道内への溢流だからな。全く……テオドラムのやつらも色々とやってくれるもんだ……』
今回のケースを「溢流」と呼んでいいのかどうかは怪しいが、少なくとも、堤防ならぬ河道が決壊しての水害には違いない。
『それで……クロウ様、この後は如何いたしましょう?』
『それなんだよなぁ……』
地下火災の時と同じように封鎖するのは簡単だが、そうするとテオドラムは今度こそダンジョン内から撤退するか、そこまでしなくともダンジョン内での活動に不熱心となる可能性が捨てきれない。
クロウとしては、テオドラムが酷い目に遭うのは何であれ歓迎という意識がある。そういった本音に鑑みると、ここでテオドラムが「災厄の岩窟」から手を引いて、彼らの頭痛の種が一つ減るというのは好ましくない。
それに、折角の労働力が逃げ出してしまうのも業腹ではないか。
『テオドラム兵から回収できる魔素も馬鹿にはなりませんし』
『と、なると……ここはあまり追い詰めない方が得策か』
斯くの如き裏事情から、クロウたちは坑道の浸水箇所だけを封鎖するに留め、テオドラムの泥炭採掘を――少しだけ制限を加えはしたが――容認したのであった。
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「川の水位が一時的に低下した?」
一方、ところ変わってこちらはマーカス側の陣営である。
マーカスの「災厄の岩窟」監視部隊の指揮官という要職に任じられたファイドル代将は、国境近辺を巡視していた者からの報告に眉を顰めていた。
確か――以前にも似たような事があった。あの時は井戸の水位が下がったという報告だったが……
「いえ、今回は少し違っていまして……」
副官の述べるところによると、偶然にも現場に居合わせた哨戒兵の目の前で、川の水が吸い込まれるように減っていったのだという。
「……すると何か? 水位の低下と言うより……?」
「はい。川の水がどこかへ流れ込んでいるかのように見えたそうです。己が眼を疑いつつ暫く様子を見ていたところ……」
「流入は停まって、流れの様子は元通り――か……」
何とも判断に困る事態である。
「テオドラムのやつらが、またぞろダンジョン内で何かやらかしたのは間違い無いだろうが……」
「問題は場所です。明らかに我がマーカスの領内であったそうですから」
漏水――漏水でいいよな?――箇所の地下でテオドラムが活動していたとすると、彼らが国境を侵犯したのは明らかである。ただし……
「……事を荒立てるのが賢明かどうかは別問題だ。少なくとも、現場司令部の一存でどうこうできる問題じゃない。俺たちだって気づかんうちに、テオドラム領を侵犯しているかもしれんのだからな」
ここで迂闊に非を鳴らすと、その非難はそっくり自分たちの側に返って来かねない。
「彼らの行為には証拠があり、我らの行為に証拠はありませんが?」
「我が領内の地下で活動していた者が、テオドラムの兵士であったという証拠は無い。地下で何者かが活動していた痕跡はあっても、それをテオドラムだと決め付ける訳にはいかん」
少なくとも、そんな面倒を抱え込みたくはないだろうが――と言われると、これには副官も同意せざるを得ない。
「……あとだ、迂闊に領地云々などと言い出したら、あのダンジョンマスターの不興を買う恐れが無視できんぞ」
嘗て「災厄の岩窟」が御目見得した際には、あわや世界大戦に至りそうな事態を引き起こした張本人なのだ。下手にちょっかいを出していい相手ではない。
「それより問題にすべきなのは、テオドラムのやつらがダンジョン内で何をやっているのか――って事の方だ」
何しろ、水位の低下が起きたのはこれで二度目である。一度なら偶然で済ませられようが、間を空けて二度目があったというのは穏やかではない。
「……テオドラムは何を画策しているんでしょうか?」
「さぁな。……だが二回とも、我が国の領土内における水に対して、何らかの影響力を行使したという事は、間違いの無いところだろう」
しかしそう答えた代将の声にも、抜き難い困惑というものが含まれている。
水資源を渇望するテオドラムが、ダンジョン内を流れる水流に目を付けたというのは充分にあり得る話だし、その結果マーカス国内における水の流れに一時的な混乱を来したというのは……充分に考えられる話であった。
ただ……それをこんな形で曝露する理由が解らないだけである。
クロウがテオドラム兵をボランティアよろしく扱き使って坑道を拡張させている――などという発想は、堅実健全を旨とする軍人の頭からは、出てきそうにないのであった。




