第百九十七章 泥炭騒動 2.ニコーラム
遡る事二ヶ月近くの五月初旬、「災厄の岩窟」から送られた密使は、王都ヴィンシュタットへの途上にあるニコーラムに辿り着くと、密かにアインベッカー教授の許を訪ねていた。古生物学の泰斗である教授から、泥炭についての意見を聞くためである。
「……ふむ……泥炭と呼ばれておるもののようじゃな」
「泥炭……ですか?」
「うむ。大昔の植物が炭化したもので、その点では石炭と同様なのじゃがね。石炭に較べると時代がまだ新しいせいなのか、石化が充分に進んでおらず、このように泥のような形状になっておる」
泥炭。草炭もしくはピートと呼ばれる事もある。低温のために分解されなかった植物遺体が堆積してできたもので、石炭形成の初期段階にあるものと考えられている。
含水率が高い上に炭素含有率が低く、燃料としての質は低いが、それでも燃えるには燃えるので、テオドラムのように可燃物資源の乏しい国にとっては貴重な燃料となる。
「燃料としては……」
「石炭は素より、下手をすると木炭にも劣るかもしれぬな。だが、その反面で採掘は容易じゃろう。何しろ掘り出すだけなんじゃからな。ま、乾かす手間は必要じゃろうが」
「火力はどの程度になるか判りませぬか?」
「すまんがそこまでは判りかねる。僕の専門からは外れるのでな。だがまぁ、混じりものも多いでな。あまり期待はできんじゃろう」
「……他には何か?」
「さっきも言うたように、僕の専門ではないのでな。ごく大雑把な事しか知らんが……煙は出るじゃろうな。……まぁ、これは石炭も同じであるが」
「煙ですか……」
「それこそ、発見した兵士に訊けばよいのではないかね? 実際に使った事があるんじゃろう?」
現実のユーザーの意見は何よりも貴重だと言いたげなアインベッカー教授であったが、
「あ……いえ、彼の場合は経験があると言っても、燃やしているのを見た事があるという程度でして。故郷でもあまり使われてはいなかったそうです。……恐らくは、教授の仰るような欠点のためでしょうね」
「ふむ……燃料としての質はさして高くないじゃろうからな」
密使は暫く考えていたようだが、
「埋蔵量についてはどうでしょうか?」
「埋蔵量かね……」
今度はアインベッカー教授が考え込んだ。
「……現場の地形や地質を見た訳ではないので確言はしかねるが……泥炭の成因を考えるに、極端に局所的であるとも思えん。粗密はあろうが、ある程度の範囲に広がっていると考えていいのではないかな? ……尤も、ダンジョンという不確定要因がある事を考えると……何とも言えんが」
「ダンジョンですか……」
何しろ、あそこは一夜にして岩山を成したような奇抜なダンジョンである。泥炭の分布にだって、どういう影響が及んでいるか知れたものではない。
「事がダンジョンとなると、益々僕の専門から外れるのでな」
「成る程……」
確かに、ダンジョンが関わっているとなると、通常の泥炭層とは異なっている可能性も捨てきれない。いや、寧ろ確実に異なっていると考えるべきだろう――と、密使は内心で同意する。……実際には、ダンジョンマスター――正確にはダンジョンロード――であるクロウは泥炭の事など知らずにいたため、何も手を加えていないのであるが……テオドラムの視点では、あれほど厄介な騒ぎを引き起こしたダンジョンマスターが、泥炭についてだけ座視しているとは思えないのであった。
「では、教授の専門に関する事をお訊ねします。今回得られた泥炭の成分……と言うか、どのような植物が元になっているか判りますか? 前回の化石と較べての話ですが」
この質問に対して、アインベッカー教授は困ったような表情を浮かべる。
「……逃げ口上と取られては困るのじゃが……何しろ、ご覧のとおりに分解されておるのでね……ただまぁ……」
「ただ……?」
「僅かに残っておる植物質を見た限りでは、スゲのような草の遺骸が確認できる。……これも確言はできかねるが……敢えて言うなら、前回得られた化石とは、植物の種類が違っておるようじゃね」
「……場所はほとんど変わらないのにですか?」
「場所は変わっておらんが、時代は変わっておるのじゃよ。おそらくは数万年、いや、それ以上の違いがあるじゃろう」
「数万年ですか……」
「数百万年と言われても驚かんね」
クロウのいる地球の場合、石炭紀は三億六千七百万年前から二億八千九百万年前まで。泥炭が第四紀に形成されたとするなら、約百七十万年前から現代まで。その差は百万年どころでは収まらない。
まぁ実際には、前に見つかった木の葉の化石は、そこまで古いものではないのだが。
「それだけの時代差があるとすると……」
「地形や気候が大きく変わった事もあったじゃろう。当然、そこに生える植物も異なってくる。組成が違っておってもおかしくはない」
「成る程……」
「ゆえに――じゃ。泥炭の組成から、期待される石炭の質を云々する事は無意味じゃよ」
「……解りました……」




