第百七十九章 湖の秘密 6.テオドラム(その2)
天敵のいない水源に誘致され、数を増やしたネズミの群れ。その侵入という視点からみると、今まで利点だった条件は一転して脆弱性に変わる。さすがにそれだけで農地が壊滅するような事態にはなるまいが、被害を受けないなどという甘い想定は通るまい。駆除と防除に時間と労力を取られれば、必然的に農地へ廻せる時間と労力は減少する。収量の低下か品質の低下か、どちらにしても好ましからざる結果になろう。
「……それがダンジョンマスターの狙いだというのか……」
誰かが呻くように呟いたが、
「最早ダンジョンマスターの思惑など関係無い。ダンジョンマスターの狙いが何であれ、これは起こり得る可能性なのだ。我々は否応なくそれに備えねばならん」
むぅ、と深刻な表情を浮かべる国務卿たち。水源が現れた事で浮かれていたが、それは吉報ではなかったらしい――少なくともある面においては。
「……こうなると、現在小麦がだぶついているのは却って幸いだな。万一の時のための備蓄に廻す事ができる」
「そうだな。……下手に売り急ぐより、寧ろ売り控えて備蓄に廻すべきだろう」
「現在取引を打診してきている商人はどうする?」
「その連中については、そのまま取引を終えていいだろう。我が国には外貨も必要だしな。ただ、今後新たな取引先を探すのは控えるという事で」
「うむ」
「異存は無い」
テオドラムが小麦の取引に消極的になれば、穀物市場も下向きの影響を受けざるを得ない。それが国際経済にどのような効果をもたらすのか。現時点でそれを予測できる者はいなかった。
難しい表情を浮かべながらも、当面の指針ができた事で動き出そうとする国務卿たち。そんな彼らを引き留めるように、トルランド外務卿が一つの動議を持ち出したのはその直後であった。
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「……ダンジョンによる包囲だと?」
「そう見えない事もない――というレベルの話だがね、あくまで。杞憂かもしれんが、この際諸君の意見を聞いてみたいのだ」
「ふむ……北に活動を活溌化させた『ピット』、東には国境線上の『岩窟』とシュレクの『廃坑』、そして今度の『湖』か……成る程……」
「『鷹』連隊がやられたグレゴーラム北の森も加えるなら……言われてみれば、そう見えない事も無いな……」
「マーカスの連中が言っていた帯状配置だが……寧ろ我が国に対する包囲と見た方が納得できそうな配置だな、確かに」
――と、頷く者がいる一方で、
「だが、包囲網としては不完全だぞ?」
「軍事的な見地からすれば、こうもズラズラと東側にダンジョンを並べるよりも、南と西の配置を完成させる方が先の筈だ。納得しにくいな」
「東側にしても不可解な点はある。マーカスの国境線上やシュレクを優先して押さえたのはなぜだ? 交易路の封鎖は素より、包囲のための要衝としては微妙だろう」
「そこはそら、ダンジョンとしての立地条件というやつではないのか?」
「シュレクの『廃坑』についてはその説明も通るが、『岩窟』はどうなる? あの場所がどんな条件を満たしているというのだ?」
「……そうだ、な。特に国境線地帯は、今回新たに『湖』まで追加されている。それ相応の理由があると考えねばならん」
――「岩窟」を造ったのは嫌がらせのため、「湖」を造ったのは精霊門のためである。
「『岩窟』では色々と無視できぬ発見もあった訳だ。今のところは不明ながら、あの場所がダンジョンマスターにとって重要である事は疑い無い」
――違う。クロウにとっての重要性など何も無い。
「ふむ……東側だけにやたらと重厚な配備を行なっているところを見ると……あの場所こそが重要なのかもしれんな。我が国への包囲網に見えるのは偶然だろう」
――包囲のためではないが、クロウは今後もテオドラムの周囲に――精霊門を開設するために――ダンジョンを造り出す予定ではある。
「む……そうなのかもしれんな。いや、お蔭で懸念を払拭できた。感謝する」
「なに、我々としても、新たな視点を得る事ができた」
……斯くして、テオドラム中枢部に新たな誤解の種が蒔かれたのであった。




