第百七十九章 湖の秘密 5.テオドラム(その1)
イラストリアへ送り込んだ密偵たちが行方を絶った事が議題となった翌日、テオドラムの国務会議は再び荒れていた。
「ダンジョンマスターの意図などどうでもいい! 我々は何をなすべきかが問題だ!」
吠え立てているのはファビク財務卿。他の国務卿たちは困惑気味に彼を取り巻いている。
「……そうは言ってもだ、あの湖ができたからと言って、何が変わったと言うのだ? 実際問題として」
「だな。水場ならダンジョン内に充分なものがある」
「まさにそれこそが問題なのだ! ダンジョンの外に充分な量の水源があるのだぞ!? 灌漑に使うなり何なり、使い途は山ほどあるだろうが!」
手を拱いている諸君らの気が知れん――とばかりに吠え立てる財務卿に向かって、冷静な、しかし困ったような口調で応じたのはラクスマン農務卿である。
「外とは言っても、林立する岩塊に囲まれているのだ。足場も悪いし、水辺までの距離もかなりあるらしいとの報告も来ている。そこを突破して水を運ぶくらいなら、素直にダンジョン内の水場から運んだ方が簡単だろう」
「……水路を引く事はできんのか? 工事さえ済ませてしまえば、後は楽だろうが」
「まず、あの湖がダンジョンマスターの支配下にあるのなら、水路工事そのものが不可能かもしれん。ダンジョンの壁と同様に、掘削できん可能性がある。ダンジョンモンスターによる妨害も考えなくてはなるまい」
冷静な突っ込みを受けて、いきり立っていた財務卿も頭が冷えたらしい。
「……すまん。水源が手に入るかもしれぬと思って、少々のぼせ上がっていたようだ」
「無理もない。水源の確保は我が国の至上命題のようなものだからな。しかしそれよりも――」
一旦言葉を切って、ラクスマン農務卿は周りを見回す。
「湖の出現は、より差し迫った問題をもたらすかもしれん」
厳しい顔付きで一同を見回す農務卿に、他の面々は困惑顔である。
「……どういう事だ?」
「あの湖に、水源地以外の価値があるのか?」
困惑顔で口々に問いかける国務卿たちを見て、ラクスマン農務卿は溜め息を吐いた。
「……気付いていなかったのかね。……あの湖は確かに水源地としての価値を持つ。しかし――それは我々にとってだけではない。他の野生動物にとっても同じなのだ。もしもネズミや虫たちが、水に惹かれて集まって来たらどうする? 大型の肉食獣は言うまでも無いとしてだ」
農務卿の指摘を理解した段階で、次第に顔色を悪くする国務卿たち。
「……ネズミや虫どもが備蓄食料を食い荒らすというのか……」
「それだけではない。虫の発生は、場合によっては悪疫の流行をもたらしかねん。農地の開拓どころではないぞ」
突如現れた「水源」の持つ意味に遅蒔きながら気付き、次第に表情も曇ってくる一同。そんな彼らに向かって農務卿が言うには、
「……ここからは、想像と言うより妄想の話になる」
躊躇いがちに、しかし厳しい表情を浮かべて、ラクスマン農務卿は口火を切った。
「湖を囲う岩塊の間には隙間があり、人は通れないが、ネズミ程度の小動物なら無理なく通り抜けられるそうだ。が、ネズミより大きな天敵は、通り抜けるのも狩りをするのも苦労するだろうという話だった」
この報告自体は既に上がっており、他の国務卿たちも情報は共有している。その点ではラクスマン卿も同じなのだが、農務卿という職掌故か、農務卿には皆が気付いていない視点から、事態を眺める事ができていた。
「国境線の近くまで農地が広がっている我が国と違って、マーカスは国境近くの農地を放棄したため、現状では荒れ地となっている。それもあって、これまでは補給という点で我が国はマーカスより優位に立っていた。だが……ネズミどもの侵入という点で見ればどうか。食べるものに富んだ我が国の農地と、マーカスの荒れ地。ネズミどもはどちらを好むと思う?」




