第百五十五章 ヴィンシュタット 1.甘い蜜の恐怖
発端は他愛の無い事であった。
マリアのジャケットのボタンが取れただけだ。
「あ……このジャケットも着続けて長いし、糸が弱くなってたのね……」
その場に居合わせたアンナがそっと目を逸らせたのも、マリアの皿に載っていたのが糖蜜と生クリームのたっぷりかかったパンケーキであったのも、全ては単なる巡り合わせであろう。
だから……その時カイトが不用意な一言を発した事は、やはり咎められる筋合いのものであったと言える……かもしれない。
少なくとも、デリカシーに欠ける発言であったとは言えるだろう。
「……マリア、お前、太ったんじゃね?」
「――――っ!」
過去最大出力のエアハンマーでカイトを吹っ飛ばしたマリアは、脊髄に響くような魂の叫びを上げた。
「……何だって……何だって、死んだ後になって太んなきゃなんないのよぉぉぉっ!」
その場に居合わせた女性陣は、そっと目頭を拭ったという。
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『……鈍った身体を鍛え直すための設備だと?』
クロウはヴィンシュタットのマリアからの要請を前に、首を捻っていた。
要請自体は少し前にカイトから出されたのと同じものであり、その内容は妥当なものである。それは良い。
解らないのは、何でまた同じ内容の請願が、今になってマリアから改めて出されたのかという事だ。妙に切羽詰まった文面なのも気にかかる。鬼気漂うというか。
『……まぁ、直に話を訊いてみれば判るだろう』
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幸か不幸か、屋敷を訪れてみるとマリアは不在――ジョギングに出ているらしい――で、代わりに説明を買って出たのが、とばっちりの被害者たるカイトであった。第三者の冷静な――私情も多少どころでなく交じっているようだったが――解説を聞かされるに及んで、クロウにも大体の事情が呑み込めた。
「甘味と運動不足が元凶か……」
甘味はクロウが持ち込んだもので、運動不足はクロウがヴィンシュタットに駐在する事を命じたせい……つまりはクロウが原因であった。
「ご主人様の魔法だか死霊術だかで、何とかできないんすか?」
「いや……いくら俺のダンジョンマジックがおかしいといっても、美容とか痩身とかまではカバーしていないからな?」
それって、ダンジョンの能力でも、ダンジョンマスターの能力でもないよな?
「死霊術の方はどうなんすか?」
「……カイト、お前、死霊術でアンデッドを痩せさせるなんて事が、できると思うか?」
「……いや……ご主人様ならできるんじゃないかと……」
「……やり方が判らん。さすがに人体実験のような真似はできんからな」
結局、チートな手段での問題解決は無理という結論になり、う~んと考え込む二人。完全に想定外の事態なのだから無理もない。
「……まぁ、マリアにとっても予想外の事だったみたいっすからね」
――健全な良識を持つ者であれば、死んだ後になって太る事などは考えない。
「だが……そうなると、正攻法という事になるが……」
美容や痩身の基本と言えば、ダイエットとエクササイズであろう。
「要は、摂取したカロリーが消費されず、脂肪という形で蓄積されるのが問題な訳だ。だから一番手っ取り早いのは、摂取カロリーを抑える事なんだが……」
なぜか口籠もったクロウの様子に気付く事も無く、カイトはクロウの提案をバッサリと切り捨てる。
「あ~……そりゃ無理っすよ。あのマリアに、甘いものを我慢する事なんか、できっこありませんって。食前食後にパンケーキを、それもクリームと糖蜜をてんこ盛りにかけてパクついてんっすから」
「……いや……あのな……カイト……」
「ペーターの旦那と勝負できそうな甘味の亡者なんすからね。節食とか節制とかは言うだけ無駄っす」
「へぇ……能く判ってるじゃない……」
「――っ!?」
冷え冷えとした声を耳にして、怖々と振り返ったカイトの目に映ったものは……
「……よ、よぉ……マリア……帰って……たのか……(冷や汗)」
「えぇ。……〝食前食後〟の辺りからね」
「そ……そうか……早かったんだな……?」
「えぇ。それよりカイト、節食より運動っていうあたしの方針を、あんたがそこまで理解してくれてたとは思わなかったわぁ?」
「お、おぅ……勿論、理解してるぞ?」
「だったら当然、あたしの運動にも付き合ってくれるのよねぇ?」
「……あ……?」
「身体を使うのも良いけど、思いっっっ切り魔法をぶっ放すのも、これで意外と体力を消耗するのよね~ぇ?」
「……い……?」
「付き合ってくれるのよね?」
「……う……」
「あ~……マリア、防音訓練場へのゲートは地下室に開いたたままにしてある。……あまり無茶をするんじゃないぞ?」
「――っ!?」
「あら♪ ありがとうございます、ご主人様♪」
斯くしてクロウ以下の面々は、マリアに連行されて行くカイトを哀れみの視線で見送ったのであった。




