第百五十四章 恒温器(サーモスタット) 1.発端
話は二月上旬にまで遡る。
〝砂糖菓子店の開店はいつ頃にすれば良いのか?〟
セルマインからそういう――妙に切迫した声での――問い合わせがあるまで、連絡会議の誰一人として、その点を深く考えてはいなかった。冬に開店するのは何だから、五月祭の頃に開店すれば良いんじゃないのか――漠然とそう考えていたのである。しかしながら……
「……暑いと砂糖菓子が溶ける……?」
「言われてみれば……」
砂糖菓子に親しんだ経験なぞ誰一人持たないので失念していたが、砂糖はともかく飴のようなものは、暑いと溶けてしまうので注意しろと言われたような憶えがある。尤も、そう言った当のクロウにしても、エアコンや冷蔵庫といった文明の利器が当たり前の生活を送っていたために、こちらの世界の夏という季節が砂糖菓子の販売に向かない可能性など、すっぱりと意識の埒外にあった。ダンジョンという快適環境で暮らしているクロウの眷属たちにしても、この点は同じである。
しかし、普通に暮らしている人間やノンヒュームたちはこの点を無視する事はできない訳で……
「……と、いう事は……」
「暑くなる前に開店しないといけないのか……」
「いや……それだけでなく、店内で砂糖菓子が溶けたりしないように……」
「店内を涼しく保つ必要があるのか……?」
「つまり……開店前にその技術を確立しておく必要がある……?」
今現在、ショーケース型の冷蔵箱の開発は終わっているが、本命となる温度計測と温度調節の技術の開発はというと……
「「「……拙い……」」」
……絶賛停滞中であった。
「……いっそ、涼しくなるまで開店を見合わせるか?」
――という案は、セルマインの断固たる拒否に遭った。既に店舗の準備もできている上、同業者の追及が厳しくなっているため、これ以上白を切り通すのは無理だと――多少ヒステリックに――説明されたのである。
ならば、採り得る手段は一つしか無い。
「……大至急、温度計測と温度調節の技術を確立する……それしかあるまい」
「だな……精霊使い様にもお知恵をお借りしよう」
・・・・・・・・
切羽詰まった様子の連絡会議の面々から相談を受けたクロウは、自分の浅慮に内心で舌打ちしていたが、それでも参考になりそうな事を教えるのに吝かでなかった。以前にも簡単に話してはおいたが、もう一度――今度はやや詳しく――恒温器の仕組みを説明しておく。
「……バイメタル……ですか?」
「あぁ、熱膨張率の異なる薄い金属の板を貼り合わせたものだ。片面は熱で膨張し易く、その反対の面は膨張し難い。その結果、温度が上がるとこのバイメタルは……どうなると思う?」
「……間延びし難い側に曲がる……?」
「正解だ。その動きを利用して、あれこれやる訳だ。あれこれの部分は聞いても無駄だぞ? 基になっている技術体系が、この国のそれとは違い過ぎるからな。俺にも上手く説明できる自信が無い」
「はぁ……」
「で、サーミスタというのはだな……簡単に言えば、温度によって性質……例えば、魔力の通り易さなんかが変化する物質の事だな」
「ははぁ……」
「ふぅむ……」
「ほぉ……」
解ったような解らないような声を上げて聞いている三人。クロウの方も、電気を基にした技術体系を電気の概念を用いずに説明せざるを得ないため、あまり要を得た解説にはなっていない。熱電対などは、電気無しにどう説明すべきか解らなかったため、解説自体を省いている。また、赤外線を感知する放射温度計についても、赤外線の説明をどうしたものか解らなかったため、これも割愛した。
しかしそれでも、未知の技術体系は連絡会議の三人の知性を刺激したらしく、何やら思うところを得たような声で礼を述べてきた。
「あぁ、ついでに言っておくが、開発の方向は一つに縛られない方が良いぞ。性能の善し悪しだけでは決められん面があるからな」
「は?」
「と、仰いますと?」
「例えばだ、高性能だが手間暇も費用もかかる方式と、性能は落ちるが手早く安く作れる方式と、どっちが良いと思う?」
「成る程……」
「売り方次第、買い手次第って事ですか……」
「そういう事だ」




