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第百四十六章 熟成酒 2.ドラン

 クロウからもたらされた古酒と熟成の概念、そしてその基本となる濾過や殺菌の技術は、ドランの(とう)()たちに文字通りの激震を与えた。


 なまじ大酒飲みが揃っているだけに、酒を一年以上もとっておくなどとは考えもしなかったのだが、実際に熟成された古酒――この場合はワイン――を味わってみれば、その技術が示す可能性に気付かざるを得ない。

 何より彼らに衝撃を与えたのは、他の大陸の(とう)()たちは既に火入れと濾過の知識を得ており、保存の利く酒が出回っているという事実であった。


 酒に関して自分たちより先を行っている者がいる。異国の精霊術師(クロウ)からビールの事を教えられて自分たちの見識の狭さには気付いていたが……ひょっとして……自分たちは(とう)()として時代遅れなのか?

 その懸念はドランの(とう)()たちにとって容認できるものではなかった。かれらは文字通り酒造りの鬼となって、新たな技術の習得に邁進(まいしん)したのであった。


 他のエルフたちが冷蔵技術の開発を進めていると知って単純に喜んでいたが、何でもかんでも冷蔵に頼るばかりでは駄目だという事だ。(とう)()の側からも、酒の保存期間を延ばす努力をせねばならない。飲める期間が延びるのは歓迎すべき事であるから、ドランの(とう)()たちは熱心にこの問題に取り組んだ。早速手持ちの酒に火入れと濾過を試していたところに、連絡会議から追加の情報がもたらされた。低温殺菌法である。



「……成る程。加熱する事で不都合な生き物が殖えるのを防ぐのか……」



 この世界では微生物という概念は曖昧にしか知られていなかったため、そもそも殺菌の技術が不完全であった。医療においても経験的に傷口の洗浄がなされていた程度で、感染症を引き起こした場合は魔法で対処していたのである。(むし)ろ、そういった魔法でどうこうできない酒造りの方が、まだしも衛生の意識は高かったかも知れない。



「……で、あまり高い温度にすると、肝心の酒の味わいが損なわれる、と……」



 (とう)()にとってはそれこそが大問題である。



「沸騰しない程度の温度のお湯に、六十数えるほどの間浸す、か……」



 フランスの微生物学者であるパスツールは、ワインの殺菌法として、摂氏百度以下の温度で短時間加熱する低温殺菌法、後に彼の名を取ってパスツリゼーションと呼ばれる方法を提唱した。地球世界では六十度前後で約五分、あるいは七十~八十度で約一分加熱する方法が知られている。

 クロウは――発泡酒であるビールにも適用できる事を考慮して――五十~六十度で数分間加熱する方法を伝えたのだが……予想していなかった問題が生じていた。


 その一つは時間を計る方法である。この世界にも時計は存在するが、それは普及した技術ではない。分単位で、まして秒単位での時間測定など、ほとんど無理な相談であった。

 まぁ、この件については、脈搏を利用するとか一定のリズムで数を数えるとかの方法で何とかできたが、より重要な問題がもう一つ残っていた。すなわち、温度計測の方法である。


 対象物の温度を計測する技術、そしてそれに基づいて一定の温度を維持する技術は、冷蔵技術の開発の上でも重要であり、その確立が望まれていた。今回その技術が新たな酒を造る上でも欠かせないものだと――詳細は教えないままに――ドワーフたちに伝えたところ、(くだん)の魔道具開発に携わっていたドワーフたちが、鬼気迫る勢いで食い付いた。

 自分たちの力が及ばないせいで、新たな酒の開発が遅れる? そんな事は断じて認められない。ドランの(とう)()たちに負けず劣らずの鬼となったドワーフたちは、文字どおり種族の全知全能全精力を傾けてこの問題に取り組んだ。

 最悪の場合は日本から温度計を持ち込むか、それともその原理だけを教えるかと考えていたクロウであったが、エルフやドワーフたちの熱意を見て、しばし静観の構えに戻る。なるべくなら、彼らの創意工夫に任せた方が良いと判断したためである。ブレイクスルーの萌芽は一つ見えていた。


 取っ掛かりをつけたのはドワーフの鍛冶師である。彼は、自分たち鍛冶師が炉の温度を測る時に火の色を見て判断する事を、何かのヒントにならないかと言って寄越したのである。



(サーモグラフィの発想か……)



 アルコール温度計よりも複雑な構造になるだろうが、その分用途は広くなる。魔法と魔道具が発達したこの世界なら、案外早めに実用化されるかもしれない。

 クロウは余計な口出しをせずに、しばらく静観する事にした。



・・・・・・・・



「……で、温度計の開発状況は解ったが、他に何か問題があるのか?」

「問題というか、ご相談が二件ほど。第一は、戴いた古酒の使い方です」

「それこそ俺には思いつかんからな。連絡会議に一任するとしか言えんぞ?」

「は……それでしたら、一部はドワーフたちに提供しようかと……」

「……餌、だな?」

「はい」



 既に温度計製作に携わっているドワーフたちには見本として一部を飲ませているが、提供する範囲を更に拡大して、ドワーフ全体をこの計画に引き込もうという腹積もりらしい。クロウとしても別に依存は無かった。



「古酒の残りですが、人間たちに廻してはどうかと考えているのですが……」

「人間にか?」



 融和策の一環として、人間の有力者に提供してみてはどうかという相談であった。確かに、相手を選べば有効な方法かもしれないが……



「……既にビールと砂糖で随分と目立っているからなぁ……」

「えぇ。なのでこちらは一般には流さず、貴族や有力者だけに廻そうかと……」

「う~ん……」



 これについてはどういう結果になるのか、クロウにも読めない。



「……どうせ処分先は決まっていないんだし、相手を選んで少量を渡す分には問題無いかもな。ちなみに、相手としては誰を想定しているんだ? 嫌がらせにヤルタ教の教主にでも贈るか?」

「いえ……エルギンの領主、ホルベック卿はどうかと考えているのですが……」



 ホルベック、という名を聞いて、クロウにも思い当たる者がいた。バンクスの住人であるルパとパートリッジ卿である。何だかんだであの二人には色々と世話になっているし、古酒ぐらい渡しても(ばち)は当たるまい。



「……だったら、俺の知り合いの人間にも少し廻して良いか? 入手先はエルフという事にするが?」

「問題無いと思います」



 これで終わりかと思っていたクロウであったが……



「……で、もう一件の方ですが、熟成を早める方法をご存じとか?」



 クロウは湖底熟成について教える羽目になった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 今更ですが60度のお湯って、 鍋でお湯を沸かすと、鍋の底から見えるような小さな泡が出始めるのが60-65度位です 殺菌でそれぐらいがいいっていうのは 温度計が無くても大体合わせこめるからって…
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