第百二十三章 冷蔵箱 3.ヤルタ教中央教会
冷蔵箱の実用化を巡って、様々な場所で様々な思惑が蠢動していたが、その発端となる冷蔵箱の情報管理については些かの錯綜が見られた。具体的に言えば、情報の機密管理に対する認識と態度が、王国・酒造ギルド・ドワーフたちの間で一致しなかったのである。
まず王国についてであるが、兵站を左右しかねない技術という事で一応秘密裡に事を運ぶよう指示はしたものの、それほどに厳重な機密保持を考えてはいなかった。何しろ、早ければ年内――という事は三ヶ月以内――に拡大試作品が出回るのだ。機密に指定したところで実効的ではない。あまり大っぴらに騒ぎ立てさえしなければ充分、という程度の認識であった。
一方、王国からその指示を受けた酒造ギルドの方は困惑していた。成る程、言われてみれば兵站……というか食品の流通に大きく影響する技術なのは間違いない。機密指定――と、彼らは思っている――も当然だ。それは納得できるのだが……しかし、既に少々どころではなく手遅れである。冷蔵箱の技術が手に入った事で舞い上がったギルドは、八方手を回して実用化などの問題点を調べていたところなのだ。そこに機密という発想は欠片も入っていなかった。言われて初めてこの技術の影響が酒に留まらない事に気付き――一体どれだけ浮かれていたのかと呆れたくなる――慌てて口止めを始めたのである。
前日まで公言していた内容を急に口籠もる事がどれだけ好奇心を煽るか、そんな簡単な事にすら気付かないままに。
そして第三勢力のドワーフたちであるが、彼らが必死に懸命に機密保持を心懸け――そしてあっさり獣人たちに見破られ……というか、聞き破られた顛末は既に述べた。尤も、獣人たちもドワーフたちの懸命さに思うところがあったのか、聞き知った内容を口に出すような真似は慎んでいたが。
ともあれ、少し注意深い者であれば、酒造ギルドの態度の豹変から、何かが進行している事に気付くのは難しくなかったのである。
・・・・・・・・
「酒造ギルドが?」
「は、どうやら食品を冷やしす事で長保ちさせる技術のようです」
「……重要な技術である事は解るが……なぜ、酒造ギルドなのじゃ?」
「さぁ……私にはとんと……」
冷蔵の技術が食品の保存と流通に重大な変革を迫るものだというのは、教主にも解る。解らないのは、その革新技術の開発が――商業ギルドでも農業ギルドでも精肉ギルドでもなく――酒造ギルドに主導されている点である。幸か不幸か常識というものを普通に弁えている教主には、冷蔵技術と酒造ギルドとの結びつきというものがピンとこない。まぁ、冷えたビールに目の色を変える呑兵衛たちと、それに危機感を覚えたビール醸造業者という内幕を知らねば無理もない。というか、それが健全な発想というものである。
些か首を傾げはしたものの、手に入った情報の重要性は疑うまでもない。民衆の、すなわち信徒の生活に直結する内容であれば、教団が速やかに対応すべき事柄であるのは自明である。
「……解った。この件については以後も調べを続けるように」
「はっ。かしこまりました」
諜報担当の部下を下がらせると、教主は新たに得た情報について考えを巡らす。もしも冷蔵技術が話どおりのものであれば、それが実用化された暁には、食品の保存と流通が大きく変わるのは間違い無い。それに引き摺られる形で、物流や運搬といった方面も影響を受ける事に疑いは無い。さすがに庶民が冷蔵箱とやらを手に入れるような事はあるまい――と、教主は思っている――が、幾つかの大手業者がそれを入手し活用する事は充分にあり得る。それだけでも商品の品揃えや価格に大きな変動が出る事は避けられない。
「……それくらいの事は王国にも解っていようから……急激に普及させる事はあるまいが……」
生憎と、この件を主導している酒造ギルドは、一刻も早い実用化と普及を熱望している。
「ふむ……当面影響を受けるのは……何よりも食品関係、それと……軍の兵站関係か……」
庶民の生活を直撃しかねない問題ではあるが、同時に軍事力にも多大な影響を及ぼしかねない案件である。どちらも放って置くと甚だ拙い事になりそうだ。しかし、今の教主にはそこまで手を広げている余裕は無い。
教主は腹心の一人を呼び寄せると、この件について検討する事を命じた。




