第八十九章 エメン追跡隊 1.ニル
日本時間で三月の半ば、テオドラム王国の北部にあるニルの町に数名のイラストリア王国軍兵士の姿があった。
とは言っても戦闘行為に従事している訳ではない。少なくとも表向きはのんびりと寛いだ様子で、冒険者ギルド併設の酒場に入り浸ったりしながら、エメンという男の消息を尋ねていた。
そう、彼らは贋金造りのエメンを探しているとの触れ込みでイラストリア王国が派遣した追跡隊、その実態はテオドラム国内の情勢を探るための諜報部隊であった。
無論そんな事はテオドラムにだって解っている。しかし、表だって事を構えていない隣国から貨幣偽造犯の捜査に協力してくれと正式に頼まれた以上、理由もなく突っぱねる事はしにくい。テオドラムとしては審議が長引いている振りをして時間を稼ぐ――あるいは嫌がらせをする――程度の事しかできないが、それはそれでニルの町を拠点とした調査の時間が充実するだけの事である。許可を出すのが遅れれば遅れるほど、イラストリア王国軍のテオドラム滞在期間は延びるのである。
こういった次第で、イラストリアから派遣されたエメン追跡隊は、ニルの町でのんびりとテオドラム王国からの返事を待っているのであった。
「隊長、今朝この町へ着いた商人とその護衛から話を聞いてみたんですが、レンヴィルという町からニルまでの間に変わった様子は無かったようです。エメンの潜伏場所を探しているという触れ込みで聞いてみたんですが、レンヴィルとニルの間はほとんど荒れ地ばかりで、少なくとも逃亡者が長期間隠れ住むのに適した場所ではないと言っていました」
「荒れ地で人が寄って来ないんじゃ、隠れるには理想的なんじゃないのか?」
「いえ、なんでもその昔トレントが大暴れしたらしく、その呪いで草木一本まともには生えないとか。手持ちの食料を食い尽くしたら、後は飢え死にするしか無いそうです。……オドラントとか呼ばれているようですが」
「オドラント……荒廃した土地か」
追跡隊の隊長はしばらくその話を咀嚼していたようだが、やがて報告してきた兵士に向き直って問い質した。
「この町で聞いた謎の雷鳴ってのもその辺りなのか?」
「さぁ……何しろ聞くべき住人がいないようですから。ただ、商隊の護衛についていた冒険者によると、レンヴィクの町でその雷鳴を聞いた者――少なくとも不審に思った者――はいないようです。冒険者の男も、以前にここへ来た時に初めて知ったと言っていました」
「第一大隊から流れてきた話じゃ、モローの近くでも正体不明の雷が鳴ったそうだ。何でもドラゴンが関係してるんじゃないかって話だったが……」
「ドラゴンについては護衛の男も商人も話してくれました。シュレクという場所にできたダンジョンから現れて、その後行方が知れないようです。時間的な前後関係を尋ねると、どうも雷鳴より一月ほどは前の話のようですね」
「じゃあ、行方知れずのドラゴンが雷鳴の原因という事はあり得るんだな?」
「商人たちもその事を恐れていたようです。ここに来るまでは最大限の注意を払って来たと言っていました」
「で、何も見つからなかったと……」
「はい」
追跡隊の隊長は考え込む。謎の雷鳴が轟いた時期は、テオドラムが軍事行動を起こした時期と一致する。テオドラムの侵略軍に何かが――イラストリア侵攻を断念させるような非常事態が――起こったとするなら、ニルの南がその場所だとする推定には無理が無いようだ。ただ……その一ヵ月前にドラゴンが現れたというのが気になる。シュレクという場所はここからかなり離れているようだが、ドラゴンの飛行速度を考えるとさしたる距離ではあるまい。しかし……
隊長は軽く頭を振って、再び思考の淵に沈む。
(第四大隊司令部から極秘で受けた指示には、何者かが意図的にテオドラムの侵略軍を壊滅させた可能性を念頭に入れておくようにとあったが……このドラゴンがテオドラム軍を攻撃するために現れたのだとしたら、なぜ一ヵ月も前に、それもまるで離れた場所に出現したのか? ……いや、話が逆か? ドラゴンの出現は別の理由によるもので、そのドラゴンをテオドラム軍殲滅に利用した?)
ここで隊長は思考を軍人のそれに切り替える。
(しかし……いくらドラゴンでもただ一頭でテオドラムの侵攻部隊を殲滅できるものか? いや、ドラゴンが一頭でなかったとしたら、あるいは特別な能力を持っていたか……さもなくば侵攻軍は殲滅されたのではなく、作戦行動が不可能な程度の損害を被っただけか……。まて、先走る事無く状況を整理しよう)
(今のところ判っているのは、テオドラムの侵攻部隊が作戦行動を断念した事、おそらくは軍事行動が不可能な損害を被った事、ドラゴンが出現した事、そして、ドラゴン以外に脅威度の高い存在が確認されていない事、だ。従って推論の前提として、このドラゴンが侵略軍を阻止したと考えるのは妥当だろう)
生憎と前提条件が間違っている。シュレクに現れたのは自前の皮を被ったスケルトンドラゴンで、その目的は単に野次馬を追い払う事、それだけだった。テオドラムの侵攻部隊の運命には一切関係していない。
(確認されたドラゴンが一体だけだった事を考慮すると、侵略軍が壊滅したと決めてかかるのは拙い。当面の行動が不可能な被害を受けただけ、という可能性もある。シュレクの地が毒に汚染されているという話を考えると、ドラゴンが吐いたのは毒であったという可能性も捨てがたい)
(だが……だとすると、現在毒による汚染が確認されていないのはなぜだ? それに、医薬品やポーションの値動きにもおかしな所はない。……毒の可能性は考えにくいか)
(だとすると、ドラゴンは侵略部隊を力ずくで粉砕したのか? ……しかし、ニルの南に大規模な戦闘の跡は残っていないらしい。ドラゴンがブレスを吐いたんなら、その形跡が残らないわけがないんだが……)
「……結局、よく判らない、か」
「は?」
「なんでもない。引き続き情報の収集を頼む」




