第八十八章 モルヴァニア軍国境監視部隊 2.監視部隊駐屯地
何も無い荒れ地に派遣されたその部隊は、しかし規律の緩みなどはちらとも見せず、大規模な陣地の設営に邁進していた。
「水質の検査結果はどうなった」
天幕の一つに入って行った、明らかに将官の威風を漂わせた初老の軍人は、余計な挨拶など抜きにして要件を切り出す。美辞麗句など不要だ、結論だけ述べよと言わんばかりに。なので天幕の住人も、要らぬ挨拶などすっ飛ばして結論だけを語る。
「現在までのところ、四本の試掘井からは砒霜は検出されておりませんな」
「少しもか?」
「少しもです」
将官らしき男性はしばし考えに沈む。本部で聞いた話では、テオドラムの秘密鉱山で砒霜による鉱害が続いており、ついには瘴気のせいでダンジョン化したという事だったが……肝心の砒霜が検出されぬとはどういう事だ?
鉱害やダンジョン化がデマという事はない筈だ。諜報部が確認を取っている筈だからな。だとすれば考えられるのは……汚染がまだここまで達していないのか、それとも、砒霜ではなくて別の毒物による汚染なのか。後者の場合は危険度を過小評価する事になる。調査部には済まないが、更に検査を進めてもらわねばなるまい……。
「主任、済まんが砒霜以外の毒物についても……」
「一通りの検査は済ませました。銅、鉛、水銀、カドミウム、クロム、ベリリウム……いずれもシロですな。現在は更にマイナーな毒物の検査をさせとります。また、生物班は近辺の動植物を調べておりますが、何らかの中毒症状を示したものは見つかっておりません。テオドラムとの国境に向けて更なる試掘井の追加と、調査班の派遣を許可願います」
「……すべて許可する。それに限らず必要と思われる事があったら、小官の許可を待たずに実行してくれ。報告はその後で構わん」
破格とも言える太っ腹な意見に大して、主任は僅かに片眉を上げただけで了解の意思と……そして表には出さないが確かな謝意を示した。器用な人物である。
これ以上自分がここにいては、調査班の邪魔になるだけだ。そう悟った将官――恐らくはモルヴァニアの将軍クラスであろう――は、軽く一礼して天幕を出る。自分のなすべき仕事が待っている場所へ。
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国境監視部隊の指揮官カービッド将軍は、自分の天幕の中で部下からの報告を受け、進駐部隊の現状を把握する事に努めていた。
「二個中隊五百三十二名は欠員無し、ただし体調不良が十一名か……体調不良の原因は?」
「脱水症状です。水の補給に不安があったため飲むのを控えた結果ですね」
「なら、責めるわけにはいかんな。不確かな状況のまま行軍を強いたのは我々なのだからな」
「水は何とかなりそうですか?」
「今のところ砒霜の汚染は確認されておらん。現在は砒霜以外の毒物を検査してもらっているところだ。実施できる限りの検査で問題無しと出たら、浄水器を通した水を煮沸して飲用に用いる」
「念が入ってますね」
「長年にわたって住民の健康を蝕んできたらしいからな。用心にこした事はない。生水を飲まんように徹底させておけ」
「うちの連中は大丈夫ですよ。素人じゃありません」
「戦闘部隊の兵どもは大丈夫でも、段列の連中は慣れておらんかもしれんぞ? 確認を徹底させておけよ」
「承知しました」
副官らしい男性はそう言うと、従兵に何やら言いつけて伝令に走らせると、再び将軍の方へ向き直った。
「閣下、上の方は本気でダンジョンのスタンピードを気にしているんですか?」
「何だ? スタンピード如きは屁でもないと言うつもりか?」
「まさか。モンスターの手強さも、スタンピードの恐ろしさも、自分たちはよく知っています。ただ、上層部の連中が本気でそれを心配しているとは思えないと言いますか……」
「上の連中だって馬鹿じゃないぞ? 年寄りが多いという事は、昔の事をよく知っているという事でもあるんだ。……まぁ、貴官に対してのらりくらりと惚けても始まらんな。上層部の本音はスタンピードの警戒じゃない。第一は水質汚染の実態を確かめる事、そして第二は挑発……ただし、ごく軽度のな」
将軍の説明を聞いた副官は顔をしかめる。
「軽い挑発……?」
「あぁ、我々がこの地に陣取っている以上、テオドラムも対応した部隊を貼り付けざるをえんだろう。その分、他へ廻せる戦力は限られてくる」
「牽制……ですか?」
「ある意味ではな。ここで緊張感を煽ってやれば、他の場所で事を起こすゆとりはあるまい。わが国との間で紛争が起きるにせよ、その場所を限定できる事の利点は大きい。他国と戦端を開く余力も無くなるだろう。ちなみにこの件については、既にテオドラム周囲の国々と調整済みらしいな」
「……テオドラムはイラストリア侵攻の軍を進め、なぜかそれに失敗したらしいという噂が流れていますが……?」
「その噂が事実かどうかはどうでも構わん。テオドラムのやつらに嫌がらせができるんなら、それだけで充分な派兵理由になる。……尤も、連中の戦備には気をつけねばなるまいが……」
「テオドラム軍備レポートですか……。エルフから流れてきたと聞きましたが?」
「エルフはエルフでテオドラムに対して含むところがあるんだろうさ。まぁ、エルフだけじゃないだろうがな」
「……他の国々とも話が付いていると仰いましたが、我が国以外に直接行動を起こす国があるんですか?」
「一介の軍人にそこまでは判らんよ。ただ、我々の他に派兵理由があるのは、テオドラムの下流に位置するヴォルダヴァンと……強いて言えばアムルファンくらいだろうな。あとは……マーカスあたりは理由が無くても動くかもしれん」
「テオドラムのやつらも災難ですな……同情する気にはなれませんが」
「まったくだ」




