第八十七章 小麦とビール 3.エルフたち
「ビール用の小麦が足りぬと?」
ドランの村長は思いがけぬ報せに顔をしかめた。クロウとの約定によってビールの醸造に全力を挙げているというのに……。
「いや、備蓄してある分もあるので、当面は問題ない。だが、五月祭以降のエールの生産も考えると、少々困った事になるかもしれん」
ふむと考え込む村長。エルフの主食は山麦――別名エルフ麦――だが、醸造原料としては安定供給できる小麦を使用している。自家消費分だけでなく、他の村や人間たちにも卸す分もあるので、安定した品質や収量を見込める小麦を醸造原料に使っているのだ。まさかその小麦が品薄になる日が来ようとは……。
「原因は何じゃ? どこぞで飢饉があったなどという話は聞かぬが?」
干魃や害虫の大発生が原因であれば、いずれこちらに波及してこないとも限らない。早めに手を打つ必要があった。しかし、返ってきた答えは長の想定を完全に外れるものであった。
「テオドラムの小麦が嫌われておる? ……何じゃ、それは?」
エルフたちは基本森の中に引き籠もっており、人間の町に出かける事は多くない。ドランの村では醸造原料として人間から小麦を買い込んでいるが、そう頻繁に取り引きをしているわけではないため、テオドラムの毒麦の一件やシュレクの鉱毒についての一件を耳にするのが遅れていた。
だが、聞いてしまえば自分たちにも影響の出る話だというのはすぐ判る。長の決断は早かった。
「マナステラのエルフに行商人がいた筈じゃな。早う連絡を取って、小麦の確保に走れ。儂は連絡会議の方に問い合わせるでな」
・・・・・・・・
亜人連絡会議の方でも、小麦の値上がりについては既に把握していた。ただ、基本的に小麦を食さないエルフたちは、それが自分たちに影響してくる可能性を考えなかった。ドランの村からの連絡で、小麦には醸造原料としての側面があった事に気付いたのである。
「……盲点だったな」
「あぁ、まさかこのタイミングでこんな問題が出てくるとはな」
「ビールの醸造の方は大丈夫なのか?」
「そちらは備蓄していた小麦を使うから問題ないそうだ。万一の場合はライ麦を使ってみるとも言っていた。ビールはまだ一般に知られていないから、風味の違いについては別の種類だと言い抜けるのは可能だそうだ」
「なるほど……その手があったかよ」
「だが……今後の事を考えると、小麦の供給源が問題にならんか?」
「ドランの村長は、マナステラのセルマインに連絡を取ったようだ。少しばかりの小麦なら融通してもらえるだろう」
「セルマイン……あぁ、マナステラで商人やってるってエルフか」
「だが、それで足りるのか?」
「小麦の事は人間たちに任せておくより仕方があるまい。深刻な食糧不足というわけではないから、何とかなるだろう」
「なぁ……エルフの魔術で毒麦の解毒ってできないのか?」
「ダイム、問題は手間なんだ。毒に汚染されているかどうかも判らない小麦を、いちいち解毒するなんてやってられん。そんな手間をかけるなら、他から買った方が安上がりだからな」
う~むと唸る獣人を尻目に、ホルンが締め括る。
「ドランではホップの入手を契機に、小麦以外の原料での酒造りも試してみるつもりらしい。ライ麦でビールやエールが造れるのなら、今回のような事態にも余裕を持って対処できるしな。なので、ホップの確保をくれぐれも頼むと言っていた」
「ホップか……うちの村ではハヴァと呼んでいたが……雌株のみを集めねばならんのが少々面倒だが、ある程度の数は確保して栽培にも取り組んでいる。木魔法を持つ者が気合いを入れてやっているから、遠からず供給が可能だろう」
「それまでは市販品に頼るしかないか……」
「気付かれないよう密かに買い占める手筈は整っているのだろう?」
「あぁ、あちこちで少しずつ入手している。一気にビールを量産するのは無理だろうが、少しずつ浸透させるのはできるだろう」
ホルンたちのこの計画を盛大にひっくり返す者たちの存在は、まだ気付かれていなかった。
・・・・・・・・
イラストリア王国王立講学院、通称「学院」。そこには人族だけでなく、数名の亜人たちも勤務していた。エルフでも獣人でもない種族なども。
「エルフたちがなにやら動いておるようじゃな」
「ふむ、ドランのエルフがざわついておるという噂じゃ」
「あの杜氏どもが騒ぐなど、珍しい事もあるもんじゃな」
「いや……連中が騒ぐのなら、その原因は一つしかなかろう」
「……酒か?」
「聞き捨てならんのう」
「まぁ待て、今問い詰めたところで、のらりくらりと言い抜けられるだけじゃ。恐らく五月祭を狙っておるのじゃろうから、それまでは知らぬ振りをしておけばよい」
「楽しみじゃのう」
喉の奥で笑っているような声が、いつまでも室内に響いていた。
・・・・・・・・
ドランでは村長が杜氏たちと話していた。
「小麦の不足が続くようなら、ライ麦を使ってみようかと思うのじゃが、どうじゃな? どうせホップという香草を使えば、エールでも従来とは風味の異なるものになる筈じゃ。ならばついでに原料をライ麦に変えても問題はあるまい」
「ホップに余裕があるのなら、試してみるのもいいだろうな。高原に住む人間たちはライ麦のエールを造っていると聞く。我らが試してみても悪くはないだろう」
「そうだな。従来の方法で、原料をライ麦に変えて、ホップを使って造ってみるか」
「ホップの残りは多くない。長、連絡会議の衆に追加を頼んでもらえんか?」
「一応頼んではみるが……無駄遣いはするでないぞ?」
 




