第七十六章 銅版画狂想曲 2.ボルトン印刷工房
パートリッジ邸にお邪魔した翌日、教えてもらった住所にボルトン親方の工房を訪ねた俺は、描き上げた原画を手渡した。
「ありがてぇ。これならすぐにでも仕事にかかれる。早速印刷させてもらうぜ」
原画を受け取った親方は、挨拶もそこそこに奥へ引っ込んだ。
「済みません。親方はいい仕事ができそうになると子供みたいなもんで……クロウ様ですよね?」
「ええ、クロウです。挿絵画家の真似事をさせてもらいました」
「真似事だなんて……原画が凄い出来映えだったんで、こっちも気合いを入れて印刷させてもらいました。少しでも不出来な印刷は全て破り捨てたんですけど……」
おいっっ! 聞いてねぇ!
「ちょっっ! そんな事をしたんですか!?」
「ええ。ホルベック様もパートリッジ様も、当然というご様子でしたよ?」
うわぁ……。
「そうしたら、破り捨てたものを持って帰った弟子がいたんですが……その破片を譲ってくれとつきまとわれたそうです。……恐くなってこっちへ持ち帰ってきて、親方から大目玉を食らっていました」
「うわぁ……」
「以来、ゴミの管理が厳格になりましてね」
お弟子さんは笑っているが、俺としては笑うどころじゃない。まさかこんな事になるなんて……。
「あぁ、申し遅れました。自分はミケルといいます。親方の下で職人をやってます」
ミケランジェロ君かな?
「こちらこそ宜しく」
「折角お見えになったんですから、工房を見学していかれませんか? お目にかけたいものもありますし」
おぉ、願ってもないお誘いだ。中世の印刷工房を実見できるなんて、望外の幸運としか言いようがない。
「お邪魔でなければ喜んで」
ミケル君の説明によると、ここでは主に銅版による印刷を手がけているそうだ。銅版にインクを塗って軽く拭き取ると、線刻された凹部にインクが残り、紙を当ててプレスすると描線が紙に転写される。いわゆる凹版印刷というやつだ。ここの工房で採用している銅版の作成技法は三つ。銅版に直に彫刻するエングレービング。防蝕剤を塗った銅版を引っ掻いて防蝕剤を剥がし、その部分を酸で腐蝕させて凹版を作るエッチング。そして、原画を錬金術で防蝕被膜に転写し、その部分の防蝕性を失わせて腐蝕させる転写エッチングだ。ここでは錬金術師を雇う代わりに、専用の魔道具を使っているそうだが。
エングレービングとエッチングは地球世界でもお馴染みの方法だが、転写エッチングは剣と魔法の世界ならではの技法だな。下書き程度のものしかない場合は、工房の職人がエングレービングやエッチングで銅版を作るが、ちゃんとした原画があれば。転写エッチングで銅版が作れるから早いんだそうだ。
「クロウさんの原画は溜息が出るほど見事なものでしたからね。そのままで版下に使えましたから早かったですよ」
「溜息にも色々ありますからね。嘆く意味の嘆息の方でなければいいんですが」
「ははは、ご冗談を。讃歎の方ですとも。あ、お見せしたいのはこれですよ」
見れば立派な額縁に銅版が飾ってある……って、俺の絵じゃないか!?
「これは……一体?」
「版下となった原画は無論厳重に保管してありますし、銅版も同様に保管してありますが、幾つかはこうやって飾らせてもらっているんです。若い職人の目標にいいからと、親方が言いましてね。そのお許しを得たいと思ってご足労願ったわけですが……改めてお許し願えますか?」
本当を言うと決まりが悪いのだが、版権は既にルパとパートリッジ卿に渡しているからな……。俺としては異論を言える立場にない。
「ルパ……ホルベック卿とパートリッジ卿に異存が無いのなら、自分としては何も。……正直なところ決まりが悪いんですが」
そう言うと、ミケル君はあからさまにほっとした様子をみせた。
「お二方の諒解は取ってあります。お許し戴きありがとうございます。お蔭で当工房の名前も一段と上がりましたから」
散々持ち上げられて落ち着かない気分のまま、この日は工房を後にした。




