第三百五章 湖の秘密~第二幕~ 1.釣りキチ参上!(その1)
「誘いの湖」という名を冠せられていながらも、岩塊によって人の立ち入りを拒んできたその場所は、訪れる者とて無い平穏を享受していた。
その風向きが変わり始めたのはここ一月ほどの事だが、その火種が蒔かれたのは一年ほど前、「誘いの湖」が出来て間も無くの頃に遡る。
名立たる「災厄の岩窟」の隣に突如として広大な湖+湿地が誕生して以来、その「誘いの湖」もまたマーカス・テオドラム両国の関心と警戒の対象となっていた。そんな対象に選ばれた「誘いの湖」であったから、これを監視するというのは必然の流れ。マーカスでも重点監視対象に選ばれる事となった。
ところがこの湖、周辺を林立する巨石・岩海に取り囲まれているため、中央部の湖面が観察しづらいという状況にあった。監視に苦慮したマーカス側では、少し離れた位置にある樹木に登って、高い位置から観察するという方策を採る。
その後、隣接する「災厄の岩窟」とは違ってお行儀良く、どうもダンジョンですらないらしいと判ってからは、監視の頻度もやや下げられはしたが、その後も定期的な観察が行なわれていた。……ここまでが第一段階。
今更言うまでも無い事であるが、「誘いの湖」は精霊門の拠点である。故に、遠く離れた土地に住まう精霊たちも、瞬時にしてこの湖を訪れる事ができる。
……例えば、イスラファンのベジン村・ガット村・ネジド村といった僻地の寒村とかからも。百鬼夜行の一件で「特撮技術」や「操演」の楽しさに目覚めた精霊なども。
そんな精霊の一体が、人目を避けられる事これ幸いと、「誘いの湖」で、水の大蛇を象っては「操演」技術のスキルアップに励んでいたのだが……その行動がマーカスの樹上監視員の目に留まる事となった。まぁ、この時は遠くからの、しかも見通しも良くない位置からの観察であったため不確定情報とされたのであるが……そのために機密扱いもされず、他愛無い噂話として兵士たちの口の端に上る事となった。……これが第二段階。
その噂話を偶さか聞き付けた一人の吟遊詩人が、小ネタの一つくらいにはなるだろうと脚色し、近くの酒場で披露に及んだ。
曰く――〝その湖には、深く湛えられた水と同じくらいの青さを持つ、不思議な魚が棲んでいるという〟
……という具合に。
その結果、「誘いの湖」近在の村などでは、そこに何かが棲んでいるのは確たる事実であるかのような空気が醸成されるに至った。……これが第三段階。
そして第四の段階は……
「――よしっ! どうにか潜り抜けられたな」
まだ夜の明け遣らぬ薄闇の中、小柄な身体を林立する巨石の隙間に捻じ込んで、「誘いの湖」の湖面に迫ろうとしている小さな影は、とあるハーフリングの釣り師であった。
この釣り師、腕は悪くないのだが、小柄で非力なハーフリングの身の故に大物を釣り上げる事ができず、日頃から無念の思いを噛み締めていた。知り合いの釣り師が大物を釣り上げたと得意満面に話すのを聞く度に、その思いは強く深くなっていたのである。
そんな彼の耳に入って来たのが、「誘いの湖」に得体の知れぬ怪魚が棲み付いているという噂。元ネタは吟遊詩人の弾き語りであったのだが、脚色と変質を繰り返した結果、巨大な怪魚が棲んでいるのは確定事項という事になっていた。
出来て一年かそこらの湖に、そんな大物が棲み付いているというのは不自然極まりない話なのだが、この「湖」は何しろ「災厄の岩窟」の兄弟分。謎のダンジョンマスターの手によって突如として生み出された代物であるから、どんな化物が棲み付いているやら知れたものではない。
……つまり、「誘いの湖」に棲んでいるのは水棲のモンスターという事になるのだが……モンスターであろうがなかろうが、それが「怪魚」というなら釣りの対象である……と、考えるのがこの世界の釣り師・釣りキチ・釣り道楽たちであった。
その〝事実〟に件のハーフリングが思い至った時、今まで呪わしいものと思ってきた小さな体躯は、「誘いの湖」を取り囲み余人の立ち入りを拒んできた岩海を突破するための祝福のように思えたのであった。
「この小さな形だからこそ、石の隙間を縫って潜り込む事ができるってもんだ。……〝禍福は糾える縄の如し〟たぁ、能く云ったもんだぜ……見えたっ!」




