第二百九十七章 夏祭り in エルギン 4.アナスタシア王女(その2)
事の始まりは今年の四月、エルギン領主ホルベック卿の館で持て成しを受けた時、ノンヒュームからの心尽くしであるとして渡された、堅果を原料としたチーズ擬き。あれが全ての発端であった。
植物である堅果の汁を、これも植物性の凝乳酵素で凝固させたチーズ擬き。その情報に驚愕したモルファンが、教えられたレシピに従って試作を行なったところ、酵素の一つが家畜のミルクを、それはそれは好い感じに凝固させたのであった。
以前に述べた事の繰り返しになるが……この辺りで一般的なチーズの作り方とは、生まれて間も無い仔牛や仔山羊を屠り、その第四胃から取り出した凝乳酵素で乳を固めるというもので、過酷な気候の故に家畜の価値が高いモルファンでは、おいそれと受け容れがたい方法であった。
故にモルファンの民は――高級品のチーズは別として――基本的には、生クリームやバターを取った残りの脱脂乳を乳酸醗酵させてヨーグルトを造り、それを加熱し乾燥させる事で、硬いチーズのようなものを造っていた。いわゆる酸加熱凝固タイプの〝チーズ〟である。
一般的な「チーズ」と違って熟成という過程を経ていないため、酸味が強く風味に乏しい。有り体に言ってしまえば、慣れない者にはあまり美味いと思えない代物であった。なので、アナスタシア王女を始めとするモルファンの王侯貴族たちは、大陸内外の他国から輸入したものを食していた。
……というのがモルファンのチーズ事情であったから、それを根底から覆す〝植物性の凝乳酵素〟の存在、或いは導入は、モルファンの酪農業を一変させる可能性を秘めていた。
となると――である。そんな重要な情報をもたらしてくれたノンヒュームに対しては、それ相応の礼を以て尽くさねばならないのが道理である。
その第一段階として、折良くイラストリアに滞在している使節団長のツィオルコフ卿が挨拶に行くのが妥当であろう。
――ちなみに、これには裏の意味もあった。
ノンヒュームが明確に敵対しているのはテオドラムであるが、大国モルファンがそのノンヒュームに対して礼を尽くしたという事は、テオドラムをして逡巡、もしくは萎縮させるに充分な効果をもたらす筈。
その事を、モルファンとノンヒュームの何れもが理解していたからこそ、この表敬訪問は――事前にイラストリアに諮った上で――大々的に行なう必要がある、これがモルファン本国の総意であった。
……というような話を聞かされて、ふーんと聞き流していたアナスタシア王女であったが、この時彼女の脳裏に天啓の如く舞い降りてきた閃きがあった。
イラストリア王国におけるノンヒュームの根拠地と言えばエルギンであるが、そのエルギンでの夏祭りには、あのエッジ村が店を出すというではないか。
(エッジ村から贈られた草木染めのネッカチーフセット、あの存在を大っぴらにするのに、今回のエルギン行きは絶好の機会じゃないの……?)
王女はエルギンにおける歓迎パーティの席上で、エッジ村からの献上品として、草木染めのネッカチーフセットを受け取った事がある。
それ自体は大層喜ばしい事であったのだが、仮にもモルファン王家の一員たるアナスタシア王女が、他に先んじてエッジ村からの贈りものを受け取ったという事を、迂闊に周知せしめていいものか――という問題が持ち上がったため、公の場での着用を見送っているという事情があった。
しかし、今回のエルギン行きを奇貨として、夏祭りで購入した事にすれば、大っぴらに使用できるのではないか……という思い付きに抗う事ができなかったのである。
一応ツィオルコフ卿をはじめとする面々に諮り、問題は無さそうだとのお墨付きを貰って、急遽王女のエルギン行きが決まったのである。
何しろ「ナッツ・チーズ」の件で謝意を表するためという大義名分があるのだから、王女がエルギンに赴いたとしても不自然ではない。素より今回の留学には、〝ノンヒュームとの友誼を深めるため〟という目的があるのは、衆目の一致するところ。王女のエルギン行きは、寧ろ当然の事と受け取られるであろう。
(それに……ナッツ・チーズの件は比較文化史学の教材としても恰好のネタだものね。ベルフォール先生も勧めてくれたし……何の問題も無いわよね)
――そう、何の問題も無い。……少なくともアナスタシア王女の側としては。




