第二百九十一章 バンクス 1.迎賓館~アナスタシア王女の目論見~
大好評のうちに五月祭が終了して三日後、別の言い方をするならヤルタ教の教主ボッカ一世が「義賊」の噂を聞いて激怒したのと同じ日、アナスタシア王女の一行は依然としてバンクスに滞在を続けていた。
それなりに多忙な身である王女が、最大の目的であった五月祭への参観を終えてなおバンクスの地に留まり続けているのには理由がある。王都での歓迎パーティでお披露目されたシャルド古代遺跡の秘宝、その発掘責任者たるパートリッジ卿に会って話を聴かんがためである。
まぁ、言ってしまえば王女の我が儘なのだが、その我が儘に理由が無い訳でもない。元はと言えば王女がイラストリアへ留学して来たのも、〝ノンヒュームの文化や習俗を学び、彼らとの間に誼を通じるため〟である。そのノンヒュームが、嘗て人間と親しく共存していた証左となるシャルドの封印遺跡、それと同じ場所で発見された古代遺跡というのなら、これは無視できるようなものではない。ならばその発掘責任者たるパートリッジ卿と会って話を聴くというのも、これは歴とした使命の範疇であろう。……〝遺跡の秘宝〟に心惹かれただけでは決してない。
とは言え王女の身分と立場を考えると、自らパートリッジ卿の屋敷を訪ねるというのも色々と差し障りがある。故に、パートリッジ卿を迎賓館に招くという形を採らざるを得ない。
――と、口で言うのは簡単だが……仮にも一国の王女が、留学先の国の迎賓館で、更に他国の貴族を招く、という事になると、色々と準備にも気を遣う必要がある。言い換えるなら、手間と時間がかかる。
更には時期が悪いという事もある。何しろ五月祭の間は、主立った店は皆閉店、もしくは特別営業中であって、お茶会――「懇親会」とすると〝誼を通じる〟ニュアンスが強く出過ぎるので、王女とパートリッジ卿の立場を考えると、こういうふわっとした名目にならざるを得ない――に必要なあれこれの手配など無理筋であった。
畢竟、会見は五月祭終了後に時間を置いてという事になるのだが……それまでの間、ただ漫然と日を暮らすというのも、留学生という王女の立場を考えると些か外聞が悪い。しかし幸いな事に、ここバンクスには王女の滞在を正当化できる恰好の口実があった。
今更言うまでも無い事だが、ここバンクスはノンヒュームの露店が最初に御目得見した町の一つである。言い換えると、町の住民もそれだけ長くノンヒュームの製品に馴染んでいる事になる。
ただそれだけなら、特に気に留める事は無い――その筈だったが、この認識を盛大に引っ繰り返したのが、カールシン卿の報告であった。
〝砂糖が普及しているバンクスでは、町の一膳飯屋が砂糖を隠し味に使っている。のみならず庶民の家においても、砂糖は「調味料の一つ」という扱いである〟
砂糖の価値を根底から覆しかねない報告を受けて、肝を潰したのはモルファンらの沿岸諸国である。彼らの主力商品の一翼たる砂糖の価値が――善くも悪しくも――一変するような事態となっているというなら、貿易立国を標榜する彼らとしても座視はできない。
つまり……折良くバンクスに滞在中のモルファン王女としては、市中における砂糖の普及並びに使用の状況を調べるのは、国策にも適う重要任務である……
「新たな食材の流入と普及によって、住民の食生活がどう代わったのか。これって『比較文化史学』の課題としても持って来いよね」
アナスタシア王女の留学先であるイラストリア王立講学院。そこで王女が受講する予定の課目の一つが、エルフの文化史学者ベルフォールが開講する「比較文化史学」であった。既に受業は始まっている筈なので、多少参加が遅れる事にはなるが、バンクスでの実地調査という事であれば、その遅れにも大義名分が立つというもの。
尤も、王女自らが調査に乗り出す訳には勿論いかず、然りとてお付きたちを調査に派遣するのも宜しからずという事で、自治会員やギルド員などを対象とした聴き取りを中心にしたのだが、それでも興味深い証言が多々得られたのであった。
そして――本日は買い出しの手伝いという名目で、側近の一人にして諜報担当のゾラを市中に派遣している。彼女はどんなネタを拾って来るだろうか。




