第二百八十九章 五月祭(楽日を終えて) 5.王都イラストリア~王立講学院~
「新たな食文化が受容され拡散してゆく過程か……癪に障るが、セルマインの言は正鵠を射ていたという訳か……」
王都イラストリアにある王立講学院の食文化研究室でエルフの学者ベルフォールは、机の上に並べられた資料を眺めながら、感慨深げにそう呟いた。
抑マナステラの田舎に引っ込んでいた彼が、王都の学院で――モルファンの王女たちから成る生徒を相手に――教鞭を執る羽目になったのも、旧知の商人セルマインの甘言に誑かされた――註.ベルフォール視点――が故であった。
その時のセルマインの決め台詞こそが、〝イラストリアは新たな食文化の発信地だ。ここに来れば、その新たな食文化が受容され拡散してゆく過程を、その目で具に確かめる事ができる〟――というものであったのだ。
調子の良い仲人口を叩いて、この件の厄介な部分については口を拭って知らんぷりを決め込んでいたセルマインには、言ってやりたい事も多々あるが、それはそれとして――先の台詞に嘘偽りは無かったらしい。
「何しろ王都に来るや否や、昨年の『冷菓騒ぎ』の話を聞かされたのだからな……」
ベルフォールの専攻が食文化であると聞かされた相手は、十人の内七~八人までが、申し合わせたように昨年の「冷菓騒ぎ」の事を熱く語ってくれたのである。
それは確かに、食文化の研究者を標榜するベルフォールにとって、聞き逃せない大ネタであった。
何しろ、突如として王都やその近郊に現れた「冷菓」が、瞬く間に王都を中心とする一円を席捲したという話なのだ。
「カットフルーツはシアカスター、搗ち割り氷は王都で始まって、瞬く間に辺り一円に広まったそうだが……伝搬の順序は距離とは無関係か。偶々その場に居合わせて、いち早く情報に接し得たかどうかが運の分かれ目か……」
通例なら文化の伝搬プロセスは、距離や交通に左右される部分が大きいと考えられるが、
「……材料が手軽に手に入って、作り方も難しくないとなると、勝ち目を拾えるかどうかは速さが決め手になるからな。事によると、魔導通信機も使われたかもしれん」
そう呟きながらもベルフォールは、これはイラストリアであればこそ起こり得た事態であると見抜いていた。ノンヒュームによる砂糖の普及、更にコールドドリンクの周知と、酒造ギルドによる冷蔵箱の販売、更にはイラストリアによる氷室の建設といった一連のイベント無かりせば、このような事態は起こり得なかっただろう。
食文化の発祥とその伝搬のプロセス。しかもそこにはノンヒュームの食文化が、間接的にとは言え関わっている。……まるで狙い澄ましたかのように、モルファン王女を相手取っての講義に打って付け、お誂え向きのネタではないか。
盲亀の浮木か優曇華の花か、千載一遇のこの好機、可惜逃してなるものか……と、ベルフォールは早速に訊き込みを始めていたのである。
そうして迎えた今年の五月祭。そろそろ汗ばむ季節という事で、ひょっとしたらひょっとするのではないか……というベルフォールの期待は裏切られず、数箇所で搗ち割り氷の販売――と、味わい――を確認する事ができたのである。
「……とは言え、思ったよりも広まっていなかったな。聞いた限りでの去年の狂乱振りに鑑みると、もう少し多いかと思っていたんだが……」
少しばかり首を傾げたベルフォールであったが、冷菓の本番はまだ先なんだし、そこで勝負をかけるために、前座に過ぎぬ五月祭では出し惜しみしていたのだろうと納得する事にした。
カットフルーツを売っている店が一軒も無かったのには少し驚いたが、これも夏に向けての売り控えと考えれば得心がゆく。
「……やはり重要な切っ掛けとなったのはコールドドリンク。真夏に冷たく冷やした飲みものを提供するという、その行為だな」
パラダイムシフトと言っては大袈裟だろうが、〝夏に冷たく冷やした食品を楽しむ〟という愉悦、それをイラストリアに広めたのは大きいだろう。
それは単なるレシピではなく、正に「文化」と言うに相応しいものであった。冷やす対象などはそれこそ無数にある。アレンジなど幾らでも思い付こうと言うものだ。
「ドワーフたちの間では、夏のビールやエールは冷やして飲み、冬のそれは温めて飲むという習慣が確立しつつあるようだし……そしてよもや、スープを冷やして飲むとはな……」
スープというのは料理であって、温かいものを戴くのが当然。冷めたスープなど飲めたものではない――という先入観を鮮やかに打ち砕き、夏に冷やしたスープを提供したのだ。長年食文化を研究してきたベルフォールをして驚嘆せしめた一品である。
「今後これらの食文化がどう広まっていくのか……そうそう王都を離れる訳にもいかんだろうから、各地の知人や同胞に、注意しておいてくれるよう頼んでおくか……」




