第二百八十五章 五月祭(初日) 6.バンクス(その1)
シアカスターでは熱中症で倒れる者が出ていたが、少し距離を置いたここバンクスでは、そこまでの騒ぎは起きていなかった。ノンヒュームの出店が(まだ本日は)開店していないため、熱中症リスクが高い〝炎天下の長い行列〟が発生していないというのが最大の理由だろうが、それ以外にも発症を抑止する要因があった。それは……
「噂のノンヒュームの店以外にも、『コールドドリンク』を売っている店があるなんてね。しかも結構美味しいし」
「バンクスでは早くからノンヒュームが店を出した事もあって、庶民の間にも砂糖が普及しているそうですから」
「羨ましい話ね」
カールシン卿を案内係・兼・護衛としたアナスタシア王女一行が、目下舌鼓を打っているコールドドリンク。それを売っている店があちこちにあって、五月祭に訪れた者の多くがそれを手にしている……という事である。
ちなみにこのコールドドリンク、クロウの入れ知恵でバンクス自治会が試験的に設置した雪室……平たく言えば冬に積もった雪を投げ込んでおいただけの廃坑であるが、そこで溶け残っていたものである。さすがに飲用食用に使うのは躊躇われるが、飲み物を冷やすくらいなら問題は無い。
近年酒造ギルドが売り出した冷蔵箱は、要は断熱性に優れた箱であって、氷なり雪なりを入れる事で内部を低温に保つ仕組みである。暑い盛りに氷や雪を調達しようとするから魔法に頼る事になり、それがために高価にならざるを得ないのだが、冷やすための雪や氷が既にあるというなら話は別だ。
――という次第で、バンクスでは程好く冷えたコールドドリンクを、庶民がリーズナブルな価格で購入できたのであるが……この国唯一の菓子店を擁するシアカスターでは、安価な氷の調達手段が無かった事もあって、コールドドリンクの普及には一歩後れをとっていた。
それに加えて、まさか五月に暑気中り……などと油断していた事もあって、前述したような熱中症騒ぎが出来した訳なのであった。実際問題として、身体が暑さになれていない――「暑熱順化」と言うらしい――時期の方が、或る意味で熱中症の危険度は高いとも言えるのだ。
話を戻してバンクスの王女一行であるが、シアカスターでの熱中症騒ぎを目撃したカルコが、緊急性の高い案件だと判断して魔導通信機で報告を寄越したため、その助言に従ってコールドドリンクを買い求めていた訳である。まぁ尤も、さすがに雪室云々の話までは、訊き込み損ねたようであるが。
「初日はノンヒュームの出店が無いと聞いて、少しガッカリしていたけど……こうしてみると、却って良かったかもしれないわね。ノンヒューム以外の出店を見て廻る余裕ができた訳だし」
「確かにそうですね」
「まぁ、それも当初からの目的であった訳ですし」
――少しばかり説明を補足しておこう。
王女一行がイラストリア王国を訪れるに当たって、最大の目的はノンヒュームの文化と習俗を学び、できればノンヒュームとの誼を通じる事にあったが……それ以外にも重要性の高い目的があった。それが、イラストリア王国における砂糖の普及程度を確認する事である。
今更言うまでも無い事であるが、砂糖というのは高級品・贅沢品であり、その楽しみを享受できるのは、資力に余裕のある上流階級に限られている……いや、いた。
それと言うのも、砂糖がこの国では生産できない――少なくとも向かない――のが原因であり、基本的に舶来品に頼らざるを得ないため、否応無く販売価格が高騰していた訳である。
その例外がテオドラムであり、彼の国は――どうやってか――自国内での砂糖生産に成功して、それを販売する事で利益を上げていたが、正にその〝利益を上げる〟という目的のために、砂糖の価格は舶来品より少し安い程度に留めていた。結果、砂糖が高級品・贅沢品という状況は変わらなかった訳である。
ちなみにテオドラムは、自国内での砂糖生産に関しては厳重な機密保持政策をとっており、その情報に関してはモルファンでさえ全てを知るには至っていない。まぁ、海外交易によって良質な砂糖を得ている沿岸国では、領内での砂糖生産などは寧ろ邪魔でしかない訳で、そこまで熱心に探りを入れなかったという事情もあるのだが。
これでテオドラム産の砂糖の品質が高ければ、モルファンをはじめとする沿岸国も危機感を抱いたのであろうが、幸か不幸かテオドラム産の砂糖の品質はそこまで高くなく、結果として探りを入れるモチベーションもまた高まらなかった訳である。




