第二百八十五章 五月祭(初日) 2.王都イラストリア(その2)
まぁ実際問題として、アナスタシア王女の公邸が置かれたのはシアカスターだし、王女本人は学院の寮で生活する事になっている。王女と共に入寮できるお付きの人数にも限りがあるため、大勢を王都に留め置く理由も無いのであるが……そういう口実の下にシアカスターに残留した者たちの本音も重々解っているため、部下の男は沈黙を決め込んだ。
「まぁ、それはそれとして――だ。思い返してみると、歓迎パーティの席にもビールは出されておらなんだ。……王家と雖も確保は難しいという事なのか」
「それは何とも……。僭越ながら申し上げますと、抑エールというのは貴族向けの酒ではありません。畢竟、その上位互換品とも言うべきビールもまた、貴顕の会する席に出すのに相応しいかどうか……意見の分かれるところかと」
「あぁ……それもあったか」
ちなみに、入手困難として知られるビールと砂糖菓子であるが、実はエルギン領主たるホルベック卿の許には、ノンヒューム連絡協議会からこっそりと付け届けが為されている。それも、恐らくは古酒での失敗に鑑みてか、ホルベック卿の晩酌を賄う程度の量を小分けして届けるようにしているので、世間の耳目を集めるには至っていないのであった。
それはさて措き、
「話を戻すが……その〝冷やしたエール〟というやつが、王都の五月祭でも売られていた訳だな?」
「はい。それもエールだけではなく、様々な『コールドドリンク』が」
「ほぉ……様々な」
「えぇ、様々な」
ここイラストリアより北に位置して冷涼なモルファンにおいては、態々冷たく冷やした飲み物を供するという発想が生まれにくい。なのでツィオルコフ卿をはじめとする一行も、今一つ「コールドドリンク」が好評を博した理由が実感できなかったのだが、
「この国は祖国より暑い。そんな当たり前の事を我が身で感じて、初めてコールドドリンクの醍醐味が理解できました」
「ほぉ……そういうものか」
イラストリアでも五月ともなれば、そこそこ汗ばむような陽気が続く時もある。況して五月祭の最中ともなれば、人混みも人熱れも常の比ではない。汗ばんだ身にはコールドドリンクの美味さも一入というものなのであった。
そして……そういった陽気と体感温度は、コールドドリンク以外のものにも商機を開く訳で……
「搗ち割り氷?」
「はい。言ってしまえば砕いた氷に、甘味のある……汁と言うかタレと言うか、或いはソースと言うか……とにかく、それをかけただけのものなのですが……これがまた何とも」
「……美味いのか?」
「甘露でした」
その〝甘露〟とやらの味を思い出したのか、どこか蕩けたような表情になる部下。その様子を見てツィオルコフ卿も思い出した。
確か去年の夏だったか。氷菓子だか何だかで、イラストリアの王都近辺が騒がしくなった……という報告が無かったか?
「はい、正にそれです」
「〝所変われば品変わる〟ぐらいにしか、報告を読んだ時には思わなかったが……」
モルファンの国民にしてみれば、雪だの氷だのというのは売り物どころか厄介物でしかない。どちらかと言えば、金を払ってでも引き取ってほしい代物である。
なのに隣国イラストリアでは、その雪や氷が売り物になると聞いて、ツィオルコフ卿も驚き、呆れ、感心したのであった。
ちなみにこの「搗ち割り氷」であるが……去年と違って商業ギルドの統制下にあった。
明日の21時頃、死霊術師シリーズの新作「邂逅の日」を投稿の予定です。宜しければご笑覧下さい。




