第二百六十八章 ホルベック卿陞爵顛末~プレリュード~ 1.ホルベック卿(その1)
街道の雪も融け始めた三月の半ば頃、エルギン領主ホルベック卿は執務室内をウロウロと歩き回り、頭を抱え、溜息を吐き……要するに困惑の真っ直中にあった。その原因は、つい先頃ホルベック卿の許にもたらされた、王家からの通達にある。
とは言っても、別に卿が王家の怒りを買っとか、そういう話ではない。寧ろその反対である。
有り体に端的に言ってしまえば、それは陞爵の内示であった。しかもその「内示」たるや、近々卿を陞爵させるというものではない。陞爵の手続きそのものは既に終わっているが、式典については王都で近いうちに行なうので、その準備をしておけという……要するに王国からの一方的かつ短兵急な通告であったのだ。
貴族の陞爵・降爵は王家の専管事項であるとは言え、ここまで慌ただしく、かつ一方的なものは近来無かった。通例は内々に打診があって、それから話が進むというようになっている。
何しろ――降爵の場合はともかく――陞爵するとなると、必要な経費も増える訳で、その分の収入をどうするかという問題もある。領地の増収・増益に基づく陞爵なら問題は無いが、そうでない場合は転封……所謂「国替え」の措置も必要となるので、事前の調整は不可欠なのであった。内示から実際の陞爵までに数年かかる事だって珍しくない。
なのにホルベック卿の場合、ここまで性急――と言うより寧ろ拙速――なのはなぜなのか。
……卿にはその心当たりがあった。それはもう、あり過ぎるほどあった。
「……どう考えても、ノンヒュームの件じゃろうなぁ……」
ホルベック卿が治める領都エルギン、そこにノンヒュームたちが「連絡会議事務局」なるものを設立したのが二年ほど前。要望も申告も妥当なもののように思えたので、順当に認可の手続きを進めた訳だし、その事自体には何の問題も無かった。
〝問題〟というものが生じたとすれば、その後の「連絡会議」の活躍ぶりにあった。それはもう、文字どおり八面六臂・獅子奮迅の大活躍であったのだ……イラストリアの運命を、いやそれどころか近隣の国々の運命までも左右するほどに。
決して悪い結果ではなかった、それ自体は神に誓って確かなのだが……何しろ、その影響が大き過ぎた。……一介の男爵でしかないホルベック卿を、イラストリア王国どころか近隣の国々すら無視できなくなるほどに。
一介の田舎領主として安閑な人生を送ってきて、今後もそうだと予定していたホルベック卿にしてみれば、降って湧いたような幸運であり……そしてまた災難でもあった。
ホルベック卿の心中はともかく、今やあの「ノンヒューム連絡会議事務局」が拠点を構えるエルギンの領主、しかも度々王国とノンヒュームの間を取り持ってくれた功労者にして、恐らくは今後近隣諸国からの訪問の機会も増えるであろうホルベック卿を、一介の男爵に留め置くのは如何にも拙い。陞爵の話は以前から――王国内で――あったのだが、陞爵に伴って仕事が増えるとなるとホルベック卿が過労死する危険性も――冗談ではなく――あったため、王家もそれを躊躇していたのである。
ところが、事もあろうに北の大国モルファンが、イラストリアに王女を留学させる事を決定した。しかもその理由というのが、〝近頃活躍が目覚ましいノンヒュームの文化を学ぶため〟というのであるから、これはもうホルベック卿にお出まし戴くしか無い。ご丁寧にもモルファン側は、留学の際に立ち寄る場所として、エルギンの町を指定してきているのだ。有耶無耶と誤魔化せるような雰囲気ではない。
……事ここに至っては、ホルベック卿の陞爵も待った無しである。
そういう裏の事情から、王家はホルベック卿の陞爵を短兵急かつ一方的に決定した。事前の打診が無かったのは、無論ホルベック卿に辞退などされては困るからである。
ホルベック卿もそこは一端の貴族であるから、その辺りの事情までは察する事ができた。王国の判断も已む無きものと理解してもいる。
ただ――納得も理解もしてはいるが、それでホルベック卿側の事情が好転しないのも事実である。では、卿の困惑の種はどこにあるのかと言うと……
「……子爵に陞爵なぞしたら経費も支出も増えるというのに、その予算をどこから持って来いと言うんじゃ……」
ホルベック卿が「エルギン領主」である事が陞爵の理由なのだから、領地替えという事はあり得ない。つまり、エルギン領がその費用を捻出する必要がある。
ホルベック領は男爵領にしては裕福だが、子爵家を維持できる程の実入りは無い。いや、正しくは〝無かった〟――今までは。




