第二百五十二章 新年祭(楽日) 1.サウランド
サウランドの町の一画、在りし日には大いに賑わっていたその店は、今や閑古鳥を通り越して、鵺か姑獲鳥でも啼きそうな雰囲気を漂わせている。
その――客の一人もいない店の中で、苦い溜め息を吐いている一人の男がいた。
「……もはや援助金ぐらいでどうにかなる状況ではないか……」
ここはテオドラム王国が運営する……運営していた「酒場」。テオドラム産の安価なエールを餌に酔客を集め、酔った彼らの巻く管から様々な情報を集め、或いは〝酔客の戯れ言〟の体をとって流言蜚語などの情報戦を仕掛ける……そういった役目を担ってきたテオドラムの諜報拠点であった。
しかし……テオドラムの毒麦と砒霜の鉱毒の件が表沙汰になった事で国際的な不信を買い、消費者の足が遠退いたのを皮切りに、嘗ては市場を席捲していたテオドラム産の農産物は、一気に不良在庫の地位にまで転落した。
それはつまり……テオドラム産の安価なエール、言い換えると〝テオドラムの麦で造ったエール〟が信用されぬ、売れぬという事であり、更には、そういった酒を出す店から客が退くという事であった。
それでも、人は麦無くしては生きられない。孰れはテオドラムの農業生産力の前に屈するだろう――と、テオドラム本国は暢気に傲慢に構えていたのだが……その楽観を裏切って、サウランドの町は他所から小麦を調達する道を選んだ。取引相手に選ばれたのはマーカスである。
元々このサウランドという町は、マーカス――テオドラムに比肩し得る農業大国――との交易の要衝として発展してきた。商機と見て取ったマーカスの商人が、テオドラムに成り代わるべく名告りを上げるのは、ごく当然の成り行きであったのだ。
サウランドの町がマーカスとの麦取引を増やし始めた結果、それまでテオドラム産の安価なエールに押され気味だった地元のエール醸造家が息を吹き返す。テオドラム産のエールに代わって、地元サウランド産のエールが、更には隣国マーカスからのエールまでもが流入して来る。
……もはや〝テオドラム〟産エールの出る幕など、どこにも無かった。
丁度その頃、「ノンヒューム連絡会議」なる新組織が、ビールや砂糖などを売りに出し……そして、この分野でテオドラムと争う姿勢を明確に示した。
その後も様々な優良商品を提供し続けてノンヒュームの令名が高まるにつれ、愚かにも彼らと敵対しているテオドラムの悪名もまた、広く世間の知るところとなっていった。
更に悪い事に、頭の悪いテオドラム兵士がリーロットで騒ぎを起こして袋叩きにされるわ、シュレクでも無辜の村人に対するテオドラム兵の蛮行が明らかになるわ、更にはふとした行き違い――註.テオドラム視点――から贋金の件でアムルファンと仲違いするわで、元から孤立気味であったテオドラムに対する各国の好感度は、それこそ底を打つ勢いで下がって行ったのだ。
「……今や〝テオドラムの産エール〟というだけで、客からそっぽを向かれる始末だ。逆に〝非テオドラム産の麦によるエール〟というだけで客が買っていく……こんな状況で〝テオドラムの産エール〟を追加で送られてきても、何にもならんというのに……」
本国の連中の能天気な状況認識に腹が立つが、ここで独り熱ったところでどうにもならない。
「……もはや本国からの支援金くらいでどうこうできる状態じゃない。仮に店を維持できてたとしも、客が入らないのでは諜報拠点として機能しない。……寧ろ、〝そんな状態の店に出入りする客〟は目立つだけだ……」
本国の方は、新年祭の間なら、安価なエールで対抗できるのではないかと考えたようだが……現状はこの始末である。
「……潮時だな」
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ところ変わってテオドラムの王城、例によって例の如く、国務卿たちが頭を痛める会議の場である。
「……サウランドの『酒場』は放棄するしか無いか……」
「言い辛いが、事はサウランドに留まらん。もはや『酒場』という諜報拠点自体が成り立たない状況になっておるのだ」
「うむ……」
テオドラムとしては、「酒場」という形での諜報拠点は維持したいが、テオドラム産のエールが過剰なまでに警戒されている現状では、難しいのが現況である。
「……『酒場』に代わる諜報拠点を考えるしか無いか……」
「しかしいきなり言われても、直ぐに良い知恵など出てこんぞ?」
「『酒場』とて長い時間をかけて作り上げたものなのだからな」
「うむ……」
途方に暮れた面持ちで考え込む国務卿たち。その中で、やおら面を上げて口を開いたのは、テオドラムの知恵袋と見做されているラクスマン農務卿であった。
「……場当たり的な小細工にしかならんかもしれんが……」
「うむ?」
「何か打つ手があるなら言ってくれ。この際小細工でも大仕掛けでも構わん」
「うむ……では言わせてもらうが、今や〝テオドラム産のエール〟という名前そのものが地に堕ちた。それは諸君らも解っているだろう?」
「うむ……」
「まぁな……」
「だったら話の順序として、新たな銘柄が必要になる。そうではないかね?」
「うん?」
「つまり……?」
「〝テオドラム産のエール〟に代わる、新たな名前が必要だ。例えば〝ヴァザーリの新しいエール〟――とか、ね」




