第二百四十九章 新年祭(二日目) 5.バンクス~再びクロウたち~(その2)
「ノリス? それに――ゼムだったか、久しぶりだな」
ノリスは能くバンクスに買い付けに来ているマナステラの商人で、テオドラムの商人が麦角菌に汚染された小麦を、恐らくは知らぬ振りをして売っているのだとクロウから教えられて激怒し、その情報を拡散した男である。また、ゼムはノリスの商人仲間で、同じくマナステラ在住のエルフである。クロウが麦角の情報源だと知り、妊娠中の妻が毒麦を食べる危険を回避できたとして、クロウに深く感謝していた。
ちなみに麦角菌というのは麦などの穂に寄生するカビやキノコの一種で、これに含まれるアルカロイドは循環器系や神経系に対して様々な毒性を示す。
神経系に対する作用としては燃えるような手足の痛み。循環器系に対する作用としては血管収縮を引き起こし、手足の壊死や、脳の血流不足による精神錯乱・痙攣・意識不明、子宮収縮による流産などがあり、悪くすると死ぬ事もある。
そんな毒麦を――恐らくは毒性の事を知っていながら知らぬ振りをして――売り付けていたのが明らかになった事で、テオドラムの小麦を買う者はいなくなり、その結果引き起こされたあれやこれやについては既に述べた。
ともあれ、そんな二人であるからして、バンクスの町でクロウを見かけ、しかも何やら若い男にいちゃもんを付けられているらしいと見て取れば、これは声をかけるのが当然であった。諺にも〝義を見てせざるは勇無き也〟と云うではないか。
……尤も、〝いちゃもんを付けていた若い男〟が、ここバンクスの町に住まうルーパート・ホルベック爵子だとは――二人の位置からはルパの顔が見えなかった事もあって――思わなかったが。
更には、よもやクロウがパートリッジ卿とルパの本の挿絵を手掛けたなどとは思ってもみなかった。ルパがポロリと口を滑らさなければ、気付く事など無かったろう。
クロウがパートリッジ卿やルーパート・ホルベック爵子と知り合いであるとは耳にしていたが、それが挿絵画家としての繋がりだとは思わなかった。〝異国からやって来た薬師〟というだけで、貴族の興味を引くには充分だと思っていたし、それでなくともクロウなら、どこの誰と面識があってもおかしくないようは気がするし。
現に今だって、ホルベック爵子に対して貴族とも思わない扱いをしているのだ。……尤も、当のホルベック爵子自身が、〝クロウが言ったとおり、貴族とは名ばかりの穀潰し〟だと自己紹介しているが。
何とも言えない視線を向けるノリスとゼムの二人であったが、クロウの方は何やら引っ掛かるところがあったようだ。
「……ちょっと待て。俺は絵師だと最初に名告った筈だぞ? 少なくとも、薬師と名告った憶えは無いが?」
クロウの公式設定は、〝この国の薬草を調べにやって来た異国の絵師〟という事になっている。クロウもその設定どおりに自己紹介していた筈だ。クロウはそう言ってやったのだが、
「……そうだったか?」
真っ先に傍らのルパから、怪訝そうな声を返される。平素からクロウと交流している筈のルパから――である。
「……おぃルパ」
この野郎、記憶領域をどこに忘れてきやがった――と、内心で中っ腹になったクロウであったが、そこへ更なる追い討ちがかけられる。しかも次々と。
「……そう言われれば、そんな噂を聞いたような気もするが……毒麦の件以来、薬師という印象が強かったからなぁ……」
「おぃ……」
「そうだな。薬師とか本草学者と言われた方がしっくりくる」
「こら……」
「あの学識ぶりを見せられては、絵師などと言われても俄には信じ難い気がするね」
「ちょっと……」
ルパは初対面時からクロウの事を〝絵の巧い薬師〟と誤解していました。(第三十五章 博物学者 1.不本意な出会い)




