第三十五章 博物学者 2.挿絵の注文
博物学は自然史あるいは自然誌ともいい、生物や地質など自然物の全体にわたって研究する学問で、今のように各分野が分化する前の学問体系でした。中でも生物学に関する比重が大きかったようです。ロフティング作のドリトル先生が博物学者の好例です。
どこで話すという当てもなかったのだが、男の身なりが目立ち過ぎる。通行人の目を引いているので、図書館のロビーで静かに話す事にする。ここならこいつも大声は出さないだろう。
「で?」
「うん。さっきも言ったように、僕は田舎領主の三男だ。跡継ぎと関係ない気安さで博物学をやっているんだが、このほど本を書く事にした。そこで、君に挿絵を頼みたい」
ほほう、博物学者の卵か。身元が確かなら、使えそうな人材だ。あのホルベック――領主の身内じゃなければな。……うん? 本を出す?
「お貴族様が本を出すって、手書きの原稿を製本するんですか?」
「いや、原稿は手書きだが印刷は銅版でやる。君にはその原画を頼みたい」
うわぁ……銅版って、エッチングかエングレービングかよ。それで本一冊を丸々印刷って、どんだけだよ、貴族。
「それだと結構時間を食うでしょう。自分は冬が明けたらここを発ちますから、お役に立てる暇はないかと」
「急ぎの旅なのかい!?」
「特に目的地はありませんが、人に頼まれての旅なので」
事情をにおわせて断ろうとするが、それなら先に原画だけでも描いてくれと言う。いや、何を描くのかも聞いてないんですけど、俺。
「ああ、僕が調べているのは主に虫だが、その他にも興味があれば何にでも首を突っ込む事にしている」
あ、厄介なタイプだ。
「虫?」
「そうとも! 君は虫の美しさを気に留めた事は無いかね? コガネムシの金属的な輝き、チョウの豊かな色彩、ツノゼミの奇怪な形など、知るほどに興味をかき立てられる……」
あ、こいつマニアだ。つか、声が大きくなっている。静かに話すよう窘めると、慌てたように口ごもった。
「と、とにかく君に頼みたいんだ」
「なぜ、自分に?」
「作品を見た。それが一番だ。この町では使えそうな絵師が他にいない。どいつもこいつも見てくればかりのいい加減な絵を描きおって……」
なるほど。この国では科学的な細密画はまだ未発達なのか。そんな時に俺の絵を見た、と。これはいっそ、開き直って絵描きを収入の一助とするか? こいつが本当にホルベック卿の三男なら、少なくとも身元は確かって事だ。博物学者の知り合いというのも便利かもしれない。あとは、こいつがエルギンにどれくらいの頻度で戻っているかだな。向こうで鉢合わせしたら面倒だ。
「ご領主のご子息なら、父君の伝手を頼られては? ご領地には自分より優秀な絵師もおいででしょうに」
「駄目だ駄目だ。あんな田舎にまともな学者も絵師も育つもんか。僕にしてからが、もう七年も帰っていないんだ」
ほう、帰る事はまず無いと。ならば……一応他の子たちの意見も聞いておくか。
「この場ですぐお答えできるような内容じゃありません。しばしのご猶予を」
「うん! 色よい返事を期待している♪」
クロウの返事は明日。
【修正報告】「銅販」を「銅版」に修正。(2017.07.31)




